田中信昭氏と東京混声合唱団 半世紀の歩み

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田中信昭氏と東京混声合唱団 半世紀の歩み

前回のインタビューでは、東京藝大声楽科の学生だった田中信昭先生が東京混声合唱団を創設し、活動を開始したところまでお話をおうかがいしました。今回は、それからおよそ50年の間に東混が展開してきた音楽活動について、なつかしいエピソードと共にお話しいただきました。
(こちらの記事はうたの雑誌「ハンナ」2015年3月号掲載記事です)

 

「プロ連」が飛躍の大きなきっかけ

 この前お話しした「3つの柱」を目標にして東混は活動を始めたのだけど、最初は仕事がなくてほんとうに貧乏でね。でもおもしろい活動をしたくてうずうずしていたから、苦にならなかったですよ。そうこうするうちに「おもしろい団体があるぞ」と注目されるようになって、幸いあの頃はできたばかりのテレビ局もいろいろな企画をしていたから、そういう仕事も増えていきました。東混と私が初演した、三善晃の『嫁ぐ娘に』や『五つの童画』などは放送局の委嘱作品なんですよ。
 その頃、プロ合唱団は東混の他に、東京放送合唱団、二期会合唱団、日本合唱協会、藤原歌劇団合唱部などがあって、1968年秋に読売日本交響楽団の定期演奏会でペンデレツキの『ルカ福音書によるわれらの主イエス・キリストの受難と死』を若杉弘さんの指揮で合同演奏したんです。いつもはそれぞれ別々に活動をしていたけれど、こうして合同の演奏を体験したら、「これはいいぞ!」と。合唱付きのオーケストラ作品、特に近現代の作品は大人数の合唱を必要とする作品が多いから、プロ合唱団の連合があれば、オーケストラと協力し合いながら、それまで演奏できなかったさまざまな作品をプログラムできるし、合唱団にとっても仕事の幅が広がるに違いない、と思ったのね。
  「難しいんじゃない?」という声もあったけど「やってみよう!」ということになって、翌年1969年5月には、東京放送、二期会、日唱、東混の4団体で結成した「日本プロ合唱団連合 第1回定期演奏会」を開催しました。N響のメンバーとプロ連、マタチッチさんの指揮で、プログラムは『ユーゴスラビアの合唱曲』だったな。
 そのすぐあと7月には読響定期でベルリオーズ『ファウストの劫罰』を若杉さんの指揮で演奏して、一気にオーケストラとの仕事が広がりました。三善晃の『レクイエム』や『詩篇』の初演もその一つ。
 自主公演では、間宮芳生の『コンポジション第9番―変幻―』、柴田南雄『念仏踊』、ニコラ・ルッチ『小ミサ曲』などを初演したり、すごく先駆的で意欲的な活動をしていた、と自分でも驚きますね。
 1971年「民主音楽協会第2回現代作曲音楽祭」の時は、柴田南雄の『花伝書』、野田暉行『死者の書』、湯浅譲二『アタランス』、高橋悠治『玉藻』を私の指揮で全曲初演しました。その頃高校生だった野平一郎さんが聴きに来てくださったそうで「あれは本当にすごい演奏会だった」とおっしゃっておられましたよ。
 それから、今でも「伝説の~」と言われているNHKのイタリアオペラにも「プロ連」は出演しました。イタリアオペラは1956~1976年の間、8度にわたってNHKが招聘したイタリア歌劇団の歴史的公演でね、劇場を丸ごとそのままイタリアから持ってきたわけ。豪華でしたよ。その公演に出演した。私が合唱指揮をしたのは、1971年、’73年、’76年、『ノルマ』『トゥーランドット』『ファウスト』『椿姫』『道化師』などの9作品ですが、こういう経験を積んで、みんなどんどん上手くなった。一流のイタリアの歌い手の演奏を間近で聴くし、メンバー同士の交流によってお互いに刺激を受けて技術もアンサンブル力も伸びたのでしょう。
 こうして「プロ連」の活動が軌道に乗ったおかげで、国からの助成もいただけるようになって、合唱家の地位が確立したといえますね。最盛期は、1969年から約10年間。1981年にサヴァリッシュ/N響演奏会でリスト『ファウスト交響曲』を演奏してから「プロ連」はやっていないな。でも今でもあるんですよ、東混の事務所に看板がちゃんとあります。必要な時にまた集まるのね。
 こうして東混やプロ連が続いてくることができたのは、何と言っても事務局の支えがあったから。前にもお話しした松浦巌さん、そして滝淳さん、それからこれまでの事務局の面々。この人たちがいなかったら今の東混は存在していません。特に「プロ連」は滝さんにお世話になった。滝さんは、日本の音楽界全体にとって、なくてはならない人でしたね。滝さんがいなかったら、音楽界も今とはまったく違うものになっていたと言えるくらい、さまざまな面を陰で支えてこられた方です。音楽界は何を目指すべきか、を見据えて舵取りなさっておられたというのかな。こういうすばらしい事務局に出会えてほんとうに幸せです。

委嘱活動とは何か

 活動目標の一つだった『新しい日本の合唱曲を創る』こと、委嘱活動は東混の大きな特徴になりました。おかげさまですばらしい作曲家に多くの名作を作曲していただくことができて、私たちの大切なレパートリーになっています。
 例えば、柴田南雄『追分節考』は1,000回を超えるほど演奏していますよ、海外も含めて。「民謡のもつヴァイタリティ―を失わない作品を」と作曲をお願いしたら、信濃追分で歌われていた追分節を使ったあの名曲が誕生しました。歌い手が会場のあちらこちらから自分の担当する追分節を歌い始めると、演奏会場が信濃の山の中になるのね。大人から子どもまで目を輝かせながら聴いてくれます。即興的に音楽を作っていくから、同じ演奏を二度とできない!(笑)楽しいですね。
 東混の委嘱曲は200曲を超えています。私自身は東混の他、大人から児童合唱団まで多くのアマチュア合唱団との活動の中で、これまでに460曲を初演してきました。50年前にこういう活動は他にはなかったけれど、今は珍しくなくなりましたね。でも委嘱活動はなんのためにするんだろう? と思っていらっしゃる方も多いかもしれない。
 自分たちにふさわしいレパートリーを作るために、優れた作曲家に新しい作品を書いていただく。
 優れた創作家が今何を考えているのか、作品と向き合うことで、開かれた思考の在り方を知ること。現代の空間に存在するにふさわしい新しいすてきな音楽とは何か、既成の考え方にとらわれない柔軟な生き方を学ぶこと。考えること。
  「自分たちが今、何を演奏するべきなのか」を考えることはとても大事なことなのです。特に歌の作品は、人間の肉体を通して発声・発語するので、この地で日本語を使って生活をしている私たちには、まずは日本語が音楽に昇華している作品を求めるのが自然な道ですよね。人間は内的要求が高まった時に、真の表現をするでしょう。
 なんのために音楽活動をするのか、を問い続けていくと、自分たちの歌うべき作品が欲しくなる。だから委嘱活動をするのです。それは東混でもアマチュア合唱団でも同じ。
 委嘱活動をすれば力がつく、といった話ではないのですよ。イベントじゃないし、1回くらいやっても意味がない。作曲家と仲良くなると音楽が近しくなる、なんていうのも違う。
 空間をさまざまな音の律動で楽しませることのできる豊かな音楽。私はそういう作品がたくさん欲しい。460曲初演して、それらを繰り返し再演することで私は多くの大事なレパートリーをもっているけれど、それでも足りないですね。
 結局、音楽活動はプロでもアマチュアでも、目指すところは同じなんですよ。プロとアマチュアの違いは、「それで生計を立てているかどうか」それだけです。アマチュアだから演奏の能力が低い、などということは絶対にありません。プロは次々と演奏をこなしていかなければならないけれど、アマチュアはじっくりと時間をかけて練習を積むことが可能ですね。だからビックリするようなすばらしい演奏もできます。プロは、一つ一つに課せられる重い責任があるから、それが実力にも結び付いていきますね。なんのために歌うのかを自分で見つけながら、ちゃんと続ければいいのです。

3月の第236回定期演奏会について

 間宮芳生さんと三善晃さんの、今や古典ともいえる名作と、野平一郎さんが新しく作曲してくださった作品を演奏します。間宮さんのコンポジション(第1番)は、東混の委嘱作品ですが、三善さんの作品は、『三つの抒情』も『王孫不帰』も大学生の団体のために作曲されたものです。こんなにすばらしい作品を学生のために作曲されて、三善さんの人間への愛情の深さを実感しますね。そういう名作と共に演奏する野平さんの新作(転調するラブソング)は「今の僕なりの『合唱』というものへのギリギリの解答です」とのこと。言葉が疾走する1曲目。2曲目はマリリン・モンローが好きだった’60年代初頭のジャズの響きが現れます。これまでにない合唱曲ですよ。私自身も演奏するのがとても楽しみです。

(うたの雑誌「ハンナ」2015年3月号より)

この記事を掲載のハンナ2015年3月号はこちら
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日本の合唱界を牽引する(後編)
田中信昭氏、これまでの合唱人生を語る
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