私の指揮法――第5走者 本山秀毅

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うたの雑誌「ハンナ」2014年7月号掲載記事
指揮者リレーエッセイ
私の指揮法 第5走者 本山秀毅


緊張と弛緩

 例えば『ふるさと』のユニゾンを指揮するとしよう。三角形をひたすらに描き続けても、それなりに音楽は進むだろう。しかしこのシンプルな旋律の中に、なにを表現として求めるかによって、指揮の動きも当然変わることになる。
 入りの呼吸をそろえる。よどみなく息の流れを表現する。言葉の力点を示すことによって前後のまとまりを作る。頭声に由来する高い響きを要求する。息を支えるための技術を示す。母音による響きの違いを整える。フレーズのもつ緊張と弛緩を示す、などなど。
 以上のような内容は、全て指揮の動きで表現が可能である。ユニゾンですらこのように多彩な表現の可能性を示すことができるのだから、多くの声部を扱うことになると、それぞれのリズム面での交通整理や、バランス、ブレンド感のコントロールなど、その表現技術の可能性はさらに多岐にわたり、指揮の動作もあらゆる可能性が生まれることになる。
 合唱指揮においてどのような動作を選択するかは、技術が先にあるのではなく、一つの音楽の中から何を表現として引き出すかに大きく依存しているといえる。表現における嗜好や傾向が、その人の技術を形成していると言っても過言ではない。もちろんあらゆる要求に応えるためには、それに応じた技術が必要であることは言うまでもないが、まずテクニックがないとまったく先へ進むことができない、という発想はいささか偏っているように思う。バッハが指揮をするために楽譜などを丸めて筒状にして楽団の前に立つ様子が描かれたものが残されているが、当時は指揮法などもっとプリミティブなものだったと拝察される。洗練された技術に先立ってなによりも表現したいものがそこにあることが肝要なのだ。
 私が、合唱指揮において需要だと考えることの一つは「歌うための技術をどのように動作に盛り込むか」ということである。ともすれば、管弦楽や吹奏楽の華やかな指揮に目を奪われる機会が多いが、私は、古くから伝えられてきた聖歌の指揮法、すなわち旋律の動向によって「緊張と弛緩」を組み合わせて音楽を進める指揮に、大きな価値や意味があると考えている。ここにはわれわれを無意識に支配する「拍節的なリズム感」と対峙する音楽を表現するうえで、極めて重要なリズム感の表現があるからだ。そしてこの音楽の運びこそが「歌うための技術」、ひいては「テキストを伴う音楽」の本質につながるものなのである。音楽大学などで学ぶ「斎藤メソッド」は、極めて合理的ですばらしく価値のある指揮法であることは疑いないが、合唱指揮においては、それと対峙し、またすみ分けるような領域の指揮の方法があることをはっきりと意識しなければならないのである。緊張と弛緩の連なりによって歌い手の息が動き出し、このことによって、ピッチやフレージングなど多くの技術的な問題が同時に解決されていく。
 この要素を取り入れながら、無伴奏作品は言うまでもなく管弦楽付きの合唱作品を指揮することで、器楽奏者に対してもテキストを伴う音楽から音楽表現の新たな世界を示すことができるように思う。ここに合唱指揮法から発信される貴重なアイデンティティがあり、合唱音楽の存在を示すヒントがあると思うのだ。
(うたの雑誌「ハンナ」2014年7月号より)



次回は三澤洋史先生にバトンパス♪

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