田中信昭氏、これまでの合唱人生を語る

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田中信昭氏、これまでの合唱人生を語る
ネトケレーヴェ先生の教え

(こちらの記事はうたの雑誌「ハンナ」2014年7月号掲載記事です)


 私たちの世代は戦争で敗戦にあって、「人生とは何だ」と考えざるを得なくなってしまった世代です。戦争が終わって負けたあの時、それまでの世の中の常識が、全部嘘で間違いになってしまったことへの憤りがあった。「今まではなんだったんだ」って。

 前(前回公開記事の前半後半)にお話ししたように、医者になるつもりだった私は、すっかり空虚になってしまって、「自分の人生はどうする」と考え続けました。そういう中で、コーラスを始めて、そして中学校の教師になったのです。その経験の中から「もっと優れた教師になりたい」という気持ちが生まれて、東京藝大で勉強をすることにしました。

 声楽科の学生だった私は、幸運にもマルガレーテ・ネトケレーヴェ先生のクラスに入ることができたんです。ネトケ先生は、ユダヤ系のオーストリア人で、ロマン派歌曲演奏の大家でね、毎週に2回のレッスンでは、膨大な数のドイツリートを徹底的に教えられました。ロマン派歌曲を学ぶと、言葉が音楽に昇華していることを知るのね。言葉が音楽になっている、言葉の意味そのものが音楽に姿を変えている、というのかな。言葉が音楽をまとっているのです。本当にすばらしい経験でしたね、ネトケ先生との出会いは。19世紀ロマン派の時代を生きた歌い手の薫陶を受けることができたのですから。
 そして思ったわけ。「ドイツ語には、こんなにすばらしい音楽がたくさんあるのに、日本語にはなぜ、こういう歌がないのだろう」とね。

 藝大にはあの頃、ソリストになるためのレッスンはあるけど、アンサンブルを勉強する場所がなかったから、ほら私はコーラスをやっていたでしょ、アンサンブルができないのはダメだ、ソリストだってアンサンブル能力が必要だ、と考えていたんです。
 クラスのみんなに「アンサンブルをやろうよ」と持ちかけたら、20人くらい集まった。「TGC」という名前の研究会にしました。東京藝大コーラスね。これが東混の前身です。みんなもアンサンブルの大切さを実感していたんですね。最初は、声を合わせて歌い合うことを楽しみに練習していました。学内演奏会でショスタコヴィチの『森の歌』をやった時も、合唱を担当してね。山本直純が指揮して、岩城宏之も打楽器演奏して、おもしろかったですよ。長蛇の列のお客さまが入りきらなくて、仕方ないからお客を入れ換えて続けてもう一回演奏しました。楽しかった。
 そうやって練習しているうちに下級生も入ってくるし、だんだん上手くなって、メンバーの出身校の先生なんかが「うちの学校で歌ってくれ」って呼んでくれたりもして、卒業前には東北と北海道へ演奏旅行に行きました。
 卒業が見えてきたとき、この活動をどうしようか、と考えてしまった。演奏旅行なんかもあって、みんなとても仲良くなっていたし、せっかくこんなに上手くなったのだから。でも合唱団が演奏活動をして生きていく、などということはまったく考えられないことでしたね、あの頃は。私自身も東京都の教員試験を受けて、勤め先の学校も決まっていたんです。でもみんなで何度も話し合って、「苦しいかもしれないけれど、上手くなれば生きていく道はあるはずだ。そうやって新しい道を歩んでみないか。やるなら本気でやろう」と決めて、一人ずつ膝づめで話し合って、そして東京混声合唱団を旗揚げしました。みんなの気持ちが変わらないように、卒業式当日の夜、第一回演奏会を開いたんです。日本青年館でやりましたが、新聞が大きく記事にしてくれまして、藝大卒業生がプロ合唱団を作った、ってね。そのおかげで、あいにくの雨にもかかわらず超満員のお客さまがおいでくださって、なんとダフ屋も出たんですよ。
 そうやって活動を始めましたが、最初は仕事もないし、練習ばかりしていました。目黒に3階建ての一軒家を借りて、みんなで共同生活したりね。お米を買うお金がないと「明日アルバイトしてくるよ」なんてね。それでも希望がありました。

 東混を始める時に、活動目的に3つの柱を立てました。
一、楽しい演奏会をする
一、職業合唱団として成立させる
一、新しい日本の合唱曲を創る

 作曲家と協働して、日本の新しい合唱作品を創っていく、という委嘱活動は、創立の年から始めたんですよ。第一作は、清水脩『台湾ツウオ族の歌』。日本の合唱団が、優れた日本語の作品をレパートリーにして演奏活動を展開できなければ、『日本はちゃんとしっかりとした文化を持っている国です』と自信を持って言えないでしょう。これは、ネトケ先生のレッスンを受けている間に、私の裡で確かになった考えです。滝廉太郎・山田耕筰がやっていたことは、戦争で途切れ途切れになってしまったから、その先を続けなければ、と思ったんですね。そうそう、東混の活動が少しずつ知られていくようになった時、ある日、山田耕筰さんから電話がかかってきて「会いに来なさい」と。飛んで行ったら「私もがんばるから、あなたたちもしっかりがんばんなさい」と言ってくださいました。近衛秀磨さんは、東混全員をお屋敷に呼んでくださって、指揮してくださいましたよ。山田耕筰先生に作曲をお願いしたかったのですが、車椅子のお姿にその時は言い出せず、とても心残りになっています。

――なぜ東混をアマチュアではなく職業合唱団にしたのか。
 生活の糧を他に持っているとそれを優先することになるから、合唱は二の次になるでしょう。そうすると例えば、練習の組み方も思うようにならないし、演奏の時に確実に全員がそろうかどうか、という問題も起きる。確かな水準を保つことが難しい。逃げ道を作らない、というのかな。新しい在り方を切り拓いていく、そういう覚悟がなければ、ダメだと思ったんです。だから、本当に大変でしたよ。東混が幸運だったのは、たいへん優れたすばらしいマネージャーと出会うことができたことですね。松浦巌さんという方で、ある大きな会社に勤めておられて、マネージャーを引き受けてくださってからも会社員のままでした。東混の仕事がなくて困った時は、ご自分のボーナスからお金を貸してくれたり。彼に出会わなかったら、今の東混はありません。
 東混は、組合組織なのですが、これは松浦さんのお考えでした。組合組織ということは、メンバーみんながこの団体の所有者であるということ。毎年組合総会を開いて、今年はどうやって運営していこうかと話したり、1年間の仕事の在り方や、これをやると今年の終わりにはこれくらいの収入があるから、全員の給料は払えるはずだ……などということをメンバー全員で話し合うのです。松浦さんが「東混が続いていくには、この方法しかない!」と言ってくださったんですね。今でも、こうして続けることができています。
 東混を創った頃は、オーケストラの演奏会で「合唱付きの作品」を演奏することもほとんどなかった。歌える合唱団がなかったから。オーケストラと一緒に歌うことも、一生懸命やりました。
 今は合唱団もたくさんできて、合唱は盛んになりましたね。いろいろな合唱団、児童合唱から年配の方々の合唱団まで、さまざまな活動の在り方があっていいですね。みんなそれぞれの独自の活動を展開すればいい、みんな異なっているからこそすばらしいのだと思います。
 私は、いつもその時その時に、いま自分のほんとうにやりたいことは何か、と考え続けてきただけのような気がします。おかげさまでとても健康に過ごしていますが、毎日練習に出歩いて、立っているのがいいんでしょうね。

(うたの雑誌「ハンナ」2014年7月号より)

この記事を掲載のハンナ2014年7月号はこちら
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日本の合唱界を牽引する(後編)
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