月刊ハンナ2018年2月号 特集2 『赤い鳥』100年

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今から100年前の大正7(1918)年、児童文学雑誌『赤い鳥』が創刊されました。
『赤い鳥』は多くの童謡を生み出し、それらの曲は今日まで広く愛され続けています。

赤い鳥が翔んだ

文:織江りょう(童謡詩人、児童文学作家)


 

 童謡誕生前夜


 長い鎖国から開国、国内の動乱という激動の時代をくぐり抜けて誕生した明治政府は、列強の脅威に晒されながら、一刻も早い強力な中央集権体制の確立を果たし、一体となって列強に対抗する必要に迫られていた。それは、政治、経済、金融、産業、軍事などあらゆる分野にわたっていた。
 日本には、生みだすノウハウはなく、独自に育てるだけの時間的余裕もなく、短期間で各分野の体制を整備するために、必要な仕組みを各列強に学び、早急に整備する必要があった。教育はその中の重要なテーマであり、日本人の思想をひとつにまとめることが求められていた。明治5年8月、学制が公布され、「修身」「読本」「算術」などとともに、小学校に「唱歌」、中学校に「奏楽」の教科が設けられた。
 初代文部大臣森有礼は、伊沢修二に命じ、アメリカにおける小学校音楽教育の現状と日本への導入の可能性を調査させた。伊沢は、当時の初等音楽教育の第一人者であり、ボストンの小学校音楽教師であったルーサー・ホワイティング・メーソンに音楽の指導を受けた。「外国のよい音楽を選んで、これを日本へ移植する」をテーマに政府はメーソンを招聘し、本格的に唱歌教材の制作に当たらせることを決定する。明治13年、メーソンは横浜に到着、唱歌導入への歴史的な一歩を踏んだ。明治15年4月、文部省が最初の音楽教科書『小学唱歌集』初編を発行。明治16年に第二編、明治17年に第三編の唱歌集が完成した。
 外国人に外国の曲を選んでもらい、国学者や歌人に言葉を当てはめさせるというシステムから作られる作品群。そこには、芸術的・文学的な作品の生まれる余地はない。教育の名の下に上から押し付けられた唱歌には、その成り立ちから多くの矛盾を抱えて出発することを余儀なくされた。

 『赤い鳥』を作った人


 時代は明治から大正へ移っていく。大正3年に勃発した第一次世界大戦は大正7年に終結した。人びとは平和で自由なムードを享受し、民主主義の芽生えとともに、世の中に夢や希望が溢れていく。いわゆる大正デモクラシーの始まりであった。そんな中で、児童文学雑誌『赤い鳥』が鈴木三重吉によって発想され、創刊される。
 三重吉は、明治15年広島県生まれ。明治37年東京帝国大学文科英文科に入学。夏目漱石の講義を受けて敬慕の念を抱いたが、翌年、病気のため一年間休学し、瀬戸内海の島で静養。明治39年その島を舞台にした処女小説『千鳥』を執筆、漱石に送る。5月、漱石の辞とともに『ホトトギス』に掲載され好評を博した。
 三重吉は、一夜にして文壇の若きスターとなる。彼の描く叙情豊かな世界は、多くの読者を魅了した。好調なスタートは、次作『山彦』にも引き続いたが、その後の創作に伸び悩み、大正4年、『八の馬鹿』という短編小説を最後に発表を打ち切った。




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この後

『赤い鳥』童謡のはじまり


へとつづきます。月刊ハンナ2018年2月号をご覧ください。
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