
フランス
19世紀は、フランスの近代ヴァイオリンおよびヴァイオリン商の黄金時代であった。19世紀の初頭のフランスのヴァイオリンーメーカーの仕事ぶりは、多くの点で、他のヨーロッパ諸国のものと異っていた。これは、フランス革命と同様に、ヴァイオリンの歴史の上で特筆すべきことである。
18世紀の終りまでに、フランス革命の混乱はすべて終わりを告げ、19世紀の初めには、今までヴァイオリンの製作を主として支えていた、貴族階級の繁栄は過ぎ去り、少なくともパリでは、プロのヴァイオリン奏者と裕福なアマチュアのヴァイオリン愛好者がヴァイオリンの市場を支え始めたのである。
パリのメーカーたちは、珍らしく、現在でもヴァイオリン商がローマ通りに集まっているように、協力的な共同体を作っていた。
彼等の家族は、互いに血縁関係を結び、近隣に住み、従業員を交換してその技術を向上させ、さらに金銭的にも融通し合って、繁栄し続けたのである。
少なくとも、エリートといわれたガン、コリカー、ルポーおよびピクなどの家系はこのようにして栄えた。
お互いに助け合ったのは誠に好都合であったが、その結果、それぞれの楽器は、同じような形式の似通った品質となったことは否めない。
コリカーは、カルサンの後継者であったが、その優れた修理技術はパリ以外にも知れ渡っていた。当時の最大のヴァイオリンーコレクターであったコジオ伯爵は、コリカーのオールドーヴァイオリンの改造の技術を激賞している。
ルポー・ファミリーは、1794年に、オルレアンからパリに来てピクと一緒に仕事をしていたが、その後、二コラ・ルポーは、1798年に自分の店を開くことができた。
C・F・ガンは、1802年以降、ルポーの弟子となり、同時に彼の義理の息子となって成功者となった。ガンは、1820年に、コリカーが隠退した際に、その財産を買い取り、隣人のルポーと共に多くの顧客を獲得した。
コリカーは、ヴァイオリンは殆ど作らず、主としてオールド・ヴァイオリンの修理に専心した。そのため彼の楽器は全く残されていない。
多くの人びとは、二コラ・ルポーのヴァイオリンを、フランスのものとしては、最高のものであるかあるいは偉大な作品の一級に属するものと考え、現在でも高い評価をしている。彼と一緒に仕事をしていたピクの作品も同様である。なお、あまり知られてはいないが、19世紀の初頭のパリの製作者に、J・F・アルドリックがある。彼もクレモナの名器をコピーして素晴らしい楽器を作り上げている。
これらの3者は、1800年の初めの、いずれも異る優れた技術を持っていたが、未来のモダン・ヴァイオリンの元祖であったと云い切れるであろう。
ルポーの弟子であったガン、ペルナーデルは共にルポーの伝統を引き継ぎ、彼等の作ったヴァイオリンはヨーロッパ各国に知れ渡った。
1820年代のフランスでは、ミルクールで、モダン・ヴァイオリン型式のストラディヴァリ型の楽器が大量生産されて大成功をおさめた。練習用、アマチュア用および輸出用の楽器が続々と作り出されたのである。
パリでは、ピクもルポーも既にこの世を去っていたが、ルポーの弟子のガンやベルナーデルがその伝統を受け継ぎ、パリの最も優れたヴァイオリン・メーカーとなっていた。さらにアルドリックも、年は寄っていたが素晴らしい楽器を作り続けていた。
その頃、つまり1820年代の半ばに、その後のフランスの50年間を支配する若い2人のヴァイオリンーメーカーが出現した。それはジョ
ルジュ・シャノー2世とジャン・パプティスト・ヴィヨームである。
その当時のパリとミルクールではバロック型式のヴァイオリンは、既に全く作られていなかった。
パリのヴァイオリン製作者は、他のヨーロッパ諸国のメーカーと較べた場合、極めて抜きん出た優れた技術を持っていたのである。
つまり、19世紀の後半にかけては、フランスのヴァイオリンの黄金時代であった。
楽器の事典ヴァイオリン 1995年12月20日発行 無断転載禁止
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