楽器の事典ピアノ 第4章 日本の代表的な2大ブランド 世界の名器ヤマハCF誕生

HOME > メディア > 楽器の事典ピアノ > 楽器の事典ピアノ 第4章 日本の代表的な2大ブランド 世界の名器ヤマハCF誕生
  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 世界の名器ヤマハCF誕生


 昭和三十二年(一九五七)、ヤマハははじめてシカゴの楽器ショーにピアノ二台を出品した。しかし業界紙はこぞって皮肉を書き立てた。ところがある日、盲目の老人がヤマハを弾いた。モーツァルトの曲たった。彼は名調律師として知られた男だった。曲がすすむにっれて老人の顔から笑みが消え、演奏に熱が加わった。弾き終った老人は言った。
 「ううむ。スタインウェイじゃないだろう。が、これだけの音を出すものはといえば……どこのものか、わたしにはわからない。音質もアクションも、なんともいえずすばらしい」
 しかし、この年にヤマハがアメリカに輸出できたピアノは二十二台たった。アメリカ社会にヤマハが売れるようになるまでにはまだしばらくの時間が必要になる。
 昭和三十六年(一九六一)、ロスアンゼルス市の教育委員会は、グランドピアノ五十三台の入札で、全部ヤマハピアノを採用した。アメリカのメーカーをはじめとして、多くの関係者から非難がわき起った。だが、教育委員会は「いいピアノなら、どこのものでも採用する」といって態度を変えなかった。
 これが突破口となった。初めアメリカに、続いてヨーロッパに、そして世界各国へとヤマハピアノは進出していく。
 川上氏が外遊から帰って力を注いだことがもう一つある。それはピアノのデザインを変えることであった。黒塗りのピアノのカタログを携えていった川上氏は、海外のピアノがすでにすっかり生地塗りに変っていたことにいわばカルチャーショックを受ける。帰国するなり彼は木目の生地塗りピアノの製作を命じている。しかし市場は現実にはなかなか生地塗りにはならなかった。二十年を経て、ようやく川上氏が頭に描いたような時代が到来する。
 さて、川上氏が誓った新しいコンサートグランドピアノの開発はどうなったのか。
 基礎研究が一応の段階に達した昭和三十七年(一九六二)、いよいよ新しいフルコンサートーグランドピアノの試作命令が発せられた。日比谷での試演会から十二年後のことであった。
 昭和三十九年(一九六四)、最初の試作ピアノが数台製作された。テストが繰り返された。試作ピアノは格段の進歩を遂げていることがわかったが、まだスタインウェイとは距離があることも明らかになった。道は遠かったのである。
 しかし次の年、偶然のことであるが、変った人物が一人この開発の仕事に登場してくる。四月に初めて来日したイタリアのピアニスト、ミケランジェリに、七十歳になる調律技術者が同行していた。その名をチェーザレ・アウガスト・タローネといい、自らミラノでピアノエ場を経営していた。
 そのタローネが、ヤマハの工場を訪れたのである。彼は近代的な工場に驚くとともに、開発中のコンサートピアノに強い関心を示し、独得の哲学を交えて、自分ならこうする、と細部にわたって批評を加えた。川上氏はこの奇妙な老技術者を招くことにした。タローネは十一月にやってきた。
 タローネの滞在は一ヵ月であった。その間にヤマハは、彼の思うままに一台のコンサートピアノをつくらせた。出来上ったピアノは、非常にすぐれたものであった。
 タローネは常識をくつがえずような加工方法をいくつもとった。しかしそれらの中には、ヤマハの技術者たちが実験しながら捨ててきたものもかなりあったのであった。
 タローネのピアノは支柱が放射状になっており、フレームも新しい設計だった。駒は薄い板を重ねた練り駒だった。
 タローネはまた、調律、整調、整音のテクニックがいかに重要かということも教えていった。
 タローネの帰国後、コンサートピアノの開発は一層精力的に続けられていく。タローネの試みは実験に付され、改良され、新しいものに変っていった。
 このコンサートピアノは、二年後の、昭和四十二年(一九六七)十一月に、ヤマハ・コンサートグランドピアノCFという名称で、小型グランドピアノのC3と共に発表されることになるが、それまでの間、試作されたピアノは、来日した海外のピアニストによって演されている。その中には、ヘブラー、デームス、フー・ツォン、ルービンシュタイン (C3) 、ペルルミュテール、アントルモン、シフラなどの名が見える。最初の発表までに、CF、C3合わせて八十台以上のピアノが試作された。
 CFの発表は、昭和四十二年十一月、ウィルヘルム・ケンプを迎えて行われた。
 昭和四十三年(一九六八)、フランスのコートダジュールの都市マントンで行われた音楽会でのことであった。会場にはヤマハとスタインウェイが置かれていた。音楽祭に出演したピアニストのうち、アレクシスーワイセンベルク、タマシューヴァッシヤーリ、ヴィトルト・マルクジンスキーが
ヤマハとスタインウェイを弾き比べてヤマハを選んだ。この時調律を行ったのはタローネの所へ行っていたヤマハの村上輝久氏であった。
 翌年、同じ会場で、リヒテルがヤマハCFを選んだ。選んだ理由を彼は次のように述べた。
 「楽器のほんとうの良さというのは、心の感度をよく表現してくれるピアノです。悲しい音を出したい時には悲しく鳴ってくれなくてはいけない。簡単にいえば、表現力の広いピアノほどいいのです。私かヤマハを選んだのは、このような観点からみていいピアノだったからです」
 そしてリヒテルはこれ以後ずっとヤマハCFを愛用するようになる。
 CFはこの後たえず改良が加えられていく。世界の演奏家が弾き、その意見がピアノにフィードバックされ、磨きがかけられて今日に至るのである。


 
改訂 楽器の事典ピアノ 平成2年1月30日発行 無断転載禁止


▶︎▶︎▶︎
▷▷▷楽器の事典ピアノ 目次
  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 
KAWAI
YAMAHA WEBSITE