楽器の事典ピアノ 第4章 日本の代表的な2大ブランド   川上源一氏、ヤマハピアノを世界のトップに

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世界のトップの座に輝く《ヤマハ》のピアノ

 川上源一氏、ヤマハピアノを世界のトップに
 山葉直吉氏がかわいがっていた弟子の一人に田中喜三郎氏という木工の名手がいた。彼は直吉氏の頭に浮んだアイデアを、ピアノというモノに具体化して来た人である。
 昭和二十二年春、田中氏は空腹をかかえながら、バラック建ての天龍工場(主として木材の加工を行う工場)で瞑想していた。疎開が完全でなかったため焼けてしまったピアノの設計図を復元しようとしていたのである。終戦後一年半ほど立ち、ピアノ生産開始の噂も彼の耳に入るようになった。田中氏はヤマ(が遅れをとってはならないと思った。だがアップライトピアノの設計図はなかった。仕方なく戦前のピアノを想い浮べてみると、厳密な寸法まで想い起こすことができたのである。材料をかき集め、何とか一台のピアノをまとめあげることができたのであった。不死鳥のように甦ったピアノは、意気消沈していた工場の人たちを元気づけた。こうしてピアノの生産は再開された。

              
 昭和二十四年(一九四九) 一月、川上嘉市氏は戦中戦後の激務がたたって病に倒れた。翌年、長男の源一氏が社長を継ぎ嘉市氏は会長に退いた。
 川上源一氏は三十八歳の若さだった。「ピアノが好きで、戦時中もピアノをつくっている所へ来てはよくピアノを弾いていた」と田中喜三郎氏は証言している。
 昭和二十五年(一九五〇)、川上源一氏はフルコンサートーグランドピアノ製作のプロジェエクトを指揮しヽ第一号を日比谷音楽堂にもち込んでコンサー卜を開いた。結果はかんばしくなく終った。当時をふりかえって川上氏は語っている。
 「私は戦後最初にコンサートーグランドピアノをつくりましてね。資材のないときで、まだドイツにもない時分です。一生懸命やって日比谷でヤマハの楽器を聴いてもらおうと、園田高弘さんと大堀敦子さんに弾いてもらったのです。そうしたら批評家がボロクソに批評したのです。タガがゆるんだような音だとか言って……。それなら根本的に音というものを勉強し直さなければならないと、ピアノの音の勉強だけで何十万のデータをとったかしれないんです」
 川上氏は批評家の言葉に落胆しなかった。むしろ何クソと思ったのである。いかにも彼らしく何時の日か必ず彼らを感服させてみせると心に誓っている。
 川上氏はまず大学の工学部出身の俊才を集めた。奨学金制度を設け、優秀な人材の確保につとめている。
 そして彼らを、伝統的方法でピアノづくりをおぼえてきた山葉直吉氏の弟子だちと結びつけ、ピアノ研究を一から始めさせた。外国の実験データーを集め。ピアノの部品一個一個が、最終的な音にどうかかわってくるのかという実験を、彼らは来る日も来る日も繰り返した。材料と完成品の、あるいは部品と完成品の因果関係は徐々に明らかになっていった。ピアノ製作は、模倣と勘の次元から、科学と独自の開発へと歩きだしたのである。
 昭和二十八年(一九五三)七月、川上源一氏は、三ヵ月にわたる海外視察の旅に出た。川上氏にとって見るもの聞くものすベてが驚きだった。戦後の世界は、川上氏が頭に描いていた世界像とは大きく異なっていたのであ
る。
 川上氏は自伝『狼子虚に吠ゆ』の中でこの時のことをこう書いている。
 「ピアノメーカーではヒシュタインとスタインウェイ (西ドイツ)、プレイエル、ガボー(フランス の工場を見学した。プレイエルのピアノはショパンが弾いたということで有名だが、日本楽器の工場よりはるかに小さかった。工場の壁にかかっているグラフをみると、一九三〇年代には一か月に二千台売っていたのが、いまや年に二千台と激しく落ち込んでいた。ピアノの鉄骨の鋳物の砂落しが不完全のせいか、ジャリジヤリしている。家内工業に毛の生えた程度で、従業員は勤労意欲を完全に失っていた」
 川上氏はこの視察からいくっかの重要な結論を出した。その一つは、ピアノ製作を徹底的に近代化すること、さらにもう一つは、音楽そのものをだれもが楽器を使って楽しめるよう、音楽教室などの音楽普及活動を始めることであった。昭和二十九年四月、東京支店の地下にうぶ声を上げたヤマハ音楽教室は、今や、生徒数六十五万人を数えるに到り、世界各国にも教室会場を持つほどになった。
 彼はただちに計画の具体化に着手した。まず手がけたのが、ピアノの最も基本的な素材である木材の乾燥システムの開発であった。この面でのわが国の技術は極端に遅れていた。川上氏は留学生をアメリカに派遣して、木材乾燥の基礎理論を学ばせる一方、ヨーロッパへも研究者を派遣して、乾燥装置の設計に当らせている。乾燥装置は五、六年後に稼動することになるが、当時始まったばかりのオートメーションを用いたこの人工乾燥装置は世界最高水準のものとなり、ヤマハピアノの品質を向上させるだけではなく、量産化を可能にしていく。後に川上氏は述懐している。「もし、乾燥システムの研究開発を怠ったならば、ピアノの改良・開発のテンポアップは進まなかっただろう」
 この頃ヤマハはすでに、世界のピアノメーカーの中でほとんど唯一、ハンマー、フレームなどまで自社生産していたが、フレームの鋳造は昔ながらの手ごめで行われていた。手ごめだとばらつきも多く、量産化のネックになっていた。川上氏は自ら新しい鋳造機械を考案し、技術者に設計させている。この機械はその後何度も改良され、現在ではVプロ(バキュームープロセス)という、世界最高の鋳造機が採用され、極めて精度の高いフレームを鋳造している。
 次に木材を加工するための専用工作機械の開発と製作を精力的にすすめている。多くの加工工程を必要とするアクションの部品の製作には、精度+-100分の5ミリという精度を必要とした。しかし、このように精度の高い木工作機は市販されていなかった。ヤマハはこれらの工作機の多くを自社の鉄工場で設計・製作する。
 昭和三十年代の中頃になると、川上氏の計両は威力を発揮しはしめた。ヤマハはほぼ思い通りの、しかも精度の高い部品を自由につくりだせるようになっていたのである。
 ラインによる組立てが可能になるためには、部品の精度が高くなければならないが、いまヤマハは、木と金属の双方で、このむずかしい難関を突破したのである。良いピアノを安い価格でユーザーに提供できる道が開けたのだった。そしてまた、輸出競争力もついたのである。
 この結果、十九万五千円というヤマハアップライトピアノの価格は、昭和二十三年から昭和四十五年に至るまで、二十二年間据置かれることになった。
 昭和三十八年(一九六三)、浜松市西山町にアップライトピアノ専門のそれも一機種だけを組立てる工場が建設された。能力は月産二千台であった。続いて昭和四十年(一九六五)には掛川市にやはりアップライトピアノ組立て工場が稼動を開始した。浜松市中沢町の本社工場にあったアップライトピアノの組立てラインは、すべてこの二つの工場に移され、本社工場は専らグランドピアノ専門工場となった。
 新しい工場は、明るく美しかった。床はピカピカに磨かれ、そこで生れてくるピアノにふさわしかった。塗装、組立、調律など、全工程は一定のピッチタイムによりライン化されていた。
 しかし同じラインでも、ヤマハピアノのラインは、クルマやテレビの組立てラインとは違っていた。ピアノに息を吹き込む整音は、昔ながらの方法で、耳をたよりに一人の技術者が仕上げるようになっていた。それもただ音を揃えるだけの整音ではなく、音楽表現と結びっいた作音が行われていた。そして、この時、ヤマハは世界最大の楽器メーカーになっていたのである。



本社工場
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ヤマハコンソール
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ヤマハは弾く人の心に応えてくれる
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掛川工場
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改訂 楽器の事典ピアノ 平成2年1月30日発行 無断転載禁止


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