楽器の事典ピアノ 第3章 世界の代表的ブランド クナーベ

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世界的な名声を勝ち得た名器とその系譜

クナーベ

クナーベは、わが国であまり知られていない楽器だが、アメリカで最も音色が美しいといわれる楽器である。

 その音はシンギングトーンといわれるように、最も人間の歌声に近いと表現されており、その音色は輝かしく、甘く、デリカシーに富み、そして詩的である――と賞讃されている。そのため、一九二六年にメトロポリタン歌劇場の正式のピアノとして指定されて以来、アメリカの各地のオペラ劇場、音楽学校その他に相当な数の楽器が納入されている。

 クナーベピアノの創始者、ウィリアム・クナーベは、一八〇三年にドイツのクロイツベルグで生まれた。彼は最高教育を受け、一時はその学問で身を立てようとも考えたが、どういうわけか、ピアノの製作技術を学ぶ決

 

心をし、当時のドイツのピアノスクールのさまざまなマスターたちの徒弟として渡り歩いてその技術を磨いた。

 彼がアメリカのボルティモアへ移民したのは一八三三年であるから、スタインウェイの移民よりも二十年ほど早い。保守的で極めて注意深い彼はまず英語を学んで身につけ、アメリカの市況を完全に理解するまでは、ピアノの製作を控えた。

 クナーベは一八三九年にピアノメーカーとしてスタートしているが、最初は同じドイツ人のヘンリー・ガエールとタイアップして、クナーベ・アンド・ガエールという工場を作った。この共同事業は順調に発展していったが、一八五四年にガエールが手を引いて以来、クナーベは長年の研究と経験を生かし、超人的な能力を発揮して、当時の市場で最高のピアノ作り上げ、一八六〇年にはアメリカの南部の市場を完全に支配するまでに事業を発展させた。

 ところが、一八六一年に南北戦争が勃発し、アメリカでも特に南部地方が戦禍で荒廃し、五年間というものはピアノの市場も全くの混乱状態に陥り、クナーベは傷心の余り、その事業をウィリアムとアーネストの二人の息子に譲って一八六四年に六十四歳で引退してしまった。

 クナーベの二人の息子は共にアメリカで教育を受け、父からピアノ製作の秘技を充分に学び取っていたが、何しろ事業を引き継いだ時代が悪かった。南部アメリカは戦争に明け暮れ、ピアノの市場も不振のどん底であった。

 兄のウィリアムは、生来、もの静かな控え目の性格で、とても、この荒廃の時代に生きられる人物ではなかったが、弟のアーネストはこの逆で、勇猛果敢な性質を持っており、敢然とこの危機を乗り切るために父の跡を継いだのである。

 当時のクナーベのピアノ工場は、既に規模が異常に拡大しており、従業員は数百人もいて、目先の見通しは真暗で、まさに倒産寸前に追い込まれていた。

 アーネスト・クナーベは持ち前の強引さから、この危機を突破する策を案じたのである。それは、戦争で比較的被害を蒙らなかったアメリカの北部と西部に販売路を求めようという考えであった。そこで彼は長いセールスのたびに出ようと決心する。アーネストは留守中の給料に充当するための二万ドルの借入金を銀行に依頼した。二万ドルという金額は当時の銀行の貸出額としては途方もないものであった。当然、スムーズに事が運ばず、クナーベの工場は浮沈の瀬戸際に立たされたのである。

 銀行側は、その金額の莫大さから、当然担保を要求した。しかしアーネストは「クナーベの名前以外に何もありません」と胸を張っていい切った。貸出係も取締役も首を横に振ったのは当然のことだったが、今後の方針を聞かれた彼は、「これからすぐに工場に戻って、従業員を集め、あなた方のご協力が戴けなくて万策尽きたため、やむを得ず全員を解雇するといい渡します」と即座に答えた。彼は内心がっかりして工場に帰ったが、彼が帰り着くまでに、「二万ドル金額の貸し出しを承知した」という頭取の手紙が工場に届いていた。

 彼は銀行に一言の礼も言わずにセールスの旅に出発した。わずか二ヶ月の間にアーネストはすべての在庫のピアノ売りさばき、さらにクナーベの工場がフル操業しても間に合わないほどの注文を取ることに成功したのである。結局、銀行の借入金は一ドルも使わず危機を乗り切った。彼は、銀行がボルティモア随一の産業を見放すはずがないという信念のもとに。大きなカケをして銀行に勝ったと伝えられている。

 その後の二十年間はクナーベの全盛時代であった。まずニューヨークに支店を設置し、次いでワシントンを初め、次々にブランチハウスを作ってすさまじい勢いで発展していった。さらに、あらゆる機種の設計変更をし、近代的な機会を導入して、常にピアノメーカーの先導者としての役割を果していた。

 クナーベのピアノは当時の博覧会や展覧会で最高賞を受け続けたことはいうまでもなく、ダルバートやサン・サーンスのような大家がその演奏家

 

で使い続け、その抜群の性能を賞讃し続けた。

 王侯のように威厳があり、事業に対しても敏腕を振ったアーネスト・クナーベは、一方では熱心な音楽愛好家であった。彼はしばしばボルティモアを正午の汽車で発ち、ニューヨークの支店で支配人との打ち合わせをし、夜はオペラ劇場でセンブリッヒやレーマンの歌を聞いたりローゼンタールやジョセフィの演奏会を楽しみ、夜行列車でボルティモアに帰り、翌日は朝早くから機嫌よく工場で働いていたという。彼は全く疲れというものを知らない人物で、音楽をこよなく愛し、温和で親切で、万人から愛されていた。

 

 ここまでしかし、このクナーベの黄金時代に、突如として不幸がおとずれる。工場のマネージメントを担当していた兄のウィリアム・クナーベが、一八八九年に四十八歳の若さで急逝したのである。ただ一人の兄の死に落胆したアーネストは、永年の働き過ぎの疲労が一挙に出て、一八九四年にその後を追うようにこの世を去った。

 アーネスト・クナーベはウィリアム・スタインウェイやアルバート・ウェーバーなどとも親交があり、当時のアメリカのピアノ産業の大黒柱だったのである。大きな支柱を失ったクナーベの工場はポッカリ穴があいたような状態となり、やがて、アメリカン・ピアノ・カンパニーと合併せざるを得ない状態に追い込まれてしまった。だが、このクナーベ親子が作り出したすばらしいピアノは、現在、エオリアンの傘下で、その伝統を忠実に守りながら作り続けられている。

改訂 楽器の事典ピアノ 平成2年1月30日発行 無断転載禁止



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