楽器の事典ピアノ 第3章 世界の代表的ブランド チッカリング

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世界的な名声を勝ち得た名器とその系譜

チッカリング

チッカリングは現在のアメリカのピアノメーカーとしては最も長い歴史を誇っており、アメリカのピアノ企業の基礎となったともいえるであろう。

アメリカに楽器などという文化的なものがほとんど持ち込まれていなかった頃、ボストンの近くのミルトンにベンジャミン・クレホアーと呼ばれるバイオリン、チェロ、その他の楽器を作る名人がいて、一七九一年にチェンバロを完成し、次いでピアノを作ったという記録が残されている。

彼にはジョン・オスボンとアルフュース・バブコック、ルイス・バブコック兄弟の三人の弟子がいた。このバブコック兄弟は、一八一〇年にボストンでピアノ製造を始めたが、一八一九年の大不況で倒産し、兄のアルフュースだけが、一八二一年に当時の商売の神様といわれていたジョン・マッケイと組んでピアノ製造を再開した。

一方、一番弟子だったジョン・オスボンも一八一五年にピアノメーカーとしてスタートした。そして、話は複雑になるが、このジョン・オスボンとジョン・マッケイの二人が後にチッカリングと大きなかかわりを持つのである。

チッカリングの創始者であるジョナス・チッカリングは、一七九〇年代の後半にニューハンプシャーで生れた。

彼は最初にキャビネットメーカーの徒弟として働いていたが、偶然の動機からピアノメーカーとなった。

当時、ニューハンプシャー南部のニューイプスビッチの丘にジョージ王風の大邸宅が建てられ、ここにアメリカで最初のピアノがイギリスから持ち込まれた。このピアノはもともとイギリスのアメリア王姫のために作られたという由緒あるものであった。ところがそのピアノは長い航海の嵐にもまれ、さらに全く気候の違う国に送られたためにガタガタになり、その華麗な音色は消え失せてしまった。

 

ジョナス・チッカリングは偶然のチャンスから、楽器の知識がまったくないままこのピアノを見事に修理して復元した。たぶん、彼はピアノに対する天賦の才能を持っていたのであろう。そこで彼はキャビネットメーカーの職をいさぎよく捨てて、ピアノメーカーとなる決心をしたという。しかし残念ながら、この当時の記録は全く残されていない。ただアメリア王姫のピアノをなおしたのは一八一七年であったとだけ伝えられている。

 チッカリングは一八一七年、二十歳の時にボストンに出て、先に述べたジョン・オスボンの徒弟となり、五カ年の間、ピアノの製作に関するあらゆる技術を学んでいる。

 一八二三年にボルティモアから来たスコットランド人のジェームス・スチュアート(ピアノの弦の近代的な配置法の発明で知られている)が加わったが、オスボンとスチュアートが大げんかをするという事態が生じて、チッカリングはオスボンと離れてスチュアートと組み、スチュアート・アンド・チッカリングという小さな仕事場をボストンのトレモント街に持った。

 スチュアートはフラッシュ・アイディアで次々と発明をしたが、落ち着きのない男であった。これに反してチッカリングは辛抱強くて、理論的な頭脳と実行力を持っており、スチュアートの発明をコツコツと実際のピアノに実現化していった。そしてこの二人の協同の仕事場は、一八二六年にスチュアートがロンドンに移ることによって終末を告げるが、チッカリングはその後も独立して、ピアノ製作と改良に没頭した。

 彼の作り出した最初のピアノは、いうまでもなくスクエアピアノであるが、現在もミシガン州にあるディアーボーンのヘンリ・フォード博物館に保存してあり、その音色の美しさは当時のままであるという。

 チッカリングは、当時のピアノメーカーに共通な経験主義に頼らす、機械的な理論と音響学上の原理に基いてピアノを改良して行った。彼は一八三〇年にイギリスの“ブックケースタイプ”と呼ばれる楽器をモデルにして、最初のアップライトピアノを完成している。このピアノには、その外形の美しさと音色の卓越さのために、ボストンはいうにおよばず、ニューヨーク、フィラデルフィア、ボルティモアなどの、あらゆる都市から注文が殺到したという。

 チッカリングのピアノの製造は順調に発展していったが、経営のルールの通り、事業を拡大すればするほど資本の欠乏が如実となってきた。そこにパートナーとして現われたのが、先に述べたジョン・マッケイである。

 アルフェース・バブコックと組んでいた商売の神様のようなジョン・マッケイがどうしてチッカリングのパートナーとして乗り代ったのかのいきさつは、あまりにも複雑なので省略するが、要するにチッカリングは資本と販売力を持つまたとない相棒を見つけ、鬼に金棒の勢いとなったのである。

 ジョン・マッケイはクリッパー(快走船と呼ばれる、エンジンのない時代の帆走船)の船長で、イギリスその他の国々にもたびたび航海し、商売に関する豊富な経験を持ち、資本も有余るほど持っていたという。

 チッカリングは、一八〇三年にこの商売の神様と取り組み、工場の名称もチッカリング・アンド・マッケイと改め、資金や商売のことを一切忘れて、もっぱらピアノの改良に専心し、優れた製品を次々と生み出していった。

 一方マッケイは快走船にピアノを積んで、南米のあらゆる港をたずねて売りまくり、帰途にはピアノの材料のローズウッドやマホガニーなどの木材を持ち帰り、チッカリングの工場を繁栄に導いた。現在でもブエノスアイレスその他の南米都市には、百年以上も昔のチッカリングのピアノが数多く残っているという。

キャプテン・マッケイは、一八四一年に熱帯の嵐に遭遇して船もろとも行方不明になった。ピアノは作ることも難しいが、売ることも難しいといわれているが、チッカリングはキャプテン・マッケイのようなすばらしいパートナーのおかげで、四十三歳で世界で最優秀のピアノメーカーの一つにのし上がったのである。

 チッカリングは一八三七年に最初のグランドピアノを完成している。この楽器は従来のグランドピアノと異って、彼の綿密な科学的計算から生まれ出たフルアイアンプレート(総鉄骨)がつけられたものであった。この画期的な発明は世界中のピアノの製造法に大改革をもたらし、近代的ピアノの誕生の基礎となったのである。

 なお、チッカリングはこれに続いて、弦のデフレクション(偏向)、およびスクエアピアノのオーバーストリンギングなどに関する重要な発明をしている。つまり、アメリカにおける“ピアノの父”であるとともに、世界の近代的なピアノの“生みの親”なのである。

 チッカリングは、キャプテン・マッケイの積極的商法を受け継ぎ、一八五一年にロンドンのクリスタル宮殿で開催された第一回世界博覧会では数多くの製品を出品し、当時の有名な演奏家をかかえ込み、見事に最高賞を獲得している。イギリスのアメリア王姫のピアノを修理した名もないアメリカの若者は、長年の努力の末に、やがて世界一のピアノメーカーとなり画期的な楽器を携えてロンドンに乗り込み、世界中のメーカーたちは競って彼のピアノをコピーするようになった。

 幸運と不運は紙一重というが、一八五一年にロンドンでピアノメーカーとして最高の栄誉を受けたチッカリングの身に、思わぬ不運が巡ってきた。翌年の五二年十二月一日に彼のピアノ工場は火災で全焼、すべてのものは灰と化してしまった。その損害は当時の金額で二十五万ドルにもおよんだのである。

 チッカリングは、この災害にもめげず、ただちに新工場の再建に着手したが、重なる心労には勝てず、一八五三年の十二月八日に、五十六歳でこの世を去っている。彼はピアノメーカーとして天職を心から愛し、生涯誠実に働き通した。この“アメリカのピアノの父”は、新工場の完成を待たずにこの世を去ったが、この新工場の建物は、当時としてはワシントンの国会議事堂に次ぐ巨大なものであったという。

 ジョナス・チッカリングには三人の息子がおり、いずれも成人した際に父親の仕事に加わった。チッカリングの工場は、一八五二年にチッカリング・アンド・サンズと名称を改めている。

 長男のトーマス・E・チッカリングは商才にたけた人物で、芸術家、文学者、科学者などの優れた友人が多く、将来を期待されていたが、不運にして一八七一年に早世している。

 トーマスの死後、二男のC・フランク・チッカリングが事業を引き継いだが、彼は父親ゆずりの設計と発明に対する天賦の才能を持っていた。しかし、勉学に励み過ぎて健康を害し、医者のすすめで帆船に乗ってインドへの航海に出発した。この際彼は数台のピアノを船に積み込み、インドで

 

高価に販売したという。これは一八四四年のことで、これがアメリカのピアノの輸出の始まりであると記録されている。

 なお、一八五一年に彼は父親とともにロンドンの世界博覧会に行き、しばらくイギリスに留まってヨーロッパのピアノの進歩した製法を学びチッカリングの改良に貢献した。さらに彼は、事業を拡大するために、ニューヨークにチッカリングの製品倉庫を作っているが、その最大の功績は、スタインウェイ・ホールの例にならって、ニューヨークとボストンにチッカリング・ホールを建設したことであろう。

このホールは、二千人の客席を備えたコンサートルームと、ピアノの陳列室、修理室、事務所、設計室などを併せ持つもので、C・フランク・チッカリングはこの設計室で発明や改良に没頭していたという。ニューヨーク、ボストンのホールは、ピアノ演奏会はもちろんのこと、合唱、室内楽、オーケストラなどに常時使用され、音楽界に大いなる貢献をしたと伝えられている。

 ピアノ奏者としては、ハンス・フォン・ビューロー、ジョセフィ、パッハマン、ヘンリー・ケッテンなどの名が記録されており、合賞では、メンデルスゾーン・グリークラブ、イングリッシュ・グリークラブ、ニューヨーク・ボーカルソサエティなどがあり、室内楽にはニューヨーク・カルテット、オーケストラには有名なボストン・シンフォニー・オーケストラなどの名を連ねている。

 C・フランク・チッカリングは、生来、すべての点で高貴な人物であったが、その容姿も素晴らしく端麗で、ルイ十四世時代の貴族をほうふつさせるような気品をも持っていた。彼は一八九一年にニューヨークで死亡している。

 三男のジョージ・H・チッカリングは、父親の厳格な指導を受け、数年間コンサート・グランドピアノのハンマーだけを作るという難儀な仕事を続けていたが、一八五三年に工場長の職を引き受けてからも、忠実に骨の折れる仕事にだけ専心して一生を終えた。

 チッカリング親子は、ジョナス・チッカリングの「ピアノ作りは職業ではなく、技術の範ちゅうに属するものである」という言葉を守り、その従業員とともに常にプライドを持ち続けて、すばらしいピアノを次々に作り出した。さらにチッカリング親子はアメリカの音楽界からも尊敬され続け親子二代にわたってヘンデル、ハイドン協会の会長を勤めている。

 C・フランク・チッカリングは、一八六七年のパリ大博覧会にピアノを出品して最優秀賞を獲得した。彼はこの受賞に大いに満足していたが、さらに数日後、当時のフランスの皇帝であったナポレオン三世に拝謁をおおせつかるという栄誉を受け、その上音楽芸術に対する貢献の報酬として十字勲章を授けられている。このような栄誉を受けることはアメリカ人としては珍しいことで、当時のボストンは全市をあげて、この国民的英雄をほめたたえた。

 当時、ヨーロッパに世紀のピアニスト、フランツ・リストがいた。リストはその天才的な演奏技巧もさることながら、その魅力のあるパーソナリティであらゆる聴衆から絶大な人気を得ていたのである。チッカリングは何としても、この超人的な演奏家に彼のピアノを試奏してもらいたいと思い、ローマで休養しているリストに来訪を依頼したが、どうしても聞いてもらえなった。

 チッカリングは、そこで父親ゆずりの臨機応変の才で「それならローマにピアノを運ぼう」と決心した。フランスからイタリアまでアルプスを越えて重いピアノを運ぶのだから、さぞ難業苦業であったろうと想像される。しっかし、チッカリングはなんとか無事に、ローマの巨匠の居室まで運び込んだのである。

 リストは、このピアノを試弾し始めると、急に弾くのを止め、「最高だ!ピアノがこんなすばらしい性能を持っているとは夢にもおもわなかった」と叫んだという。真偽のことは定かではないが、チッカリング社のパンフレットにはこう記されている。

 リストはその後、その楽器に魅せられて二時間近くも引き続けたという。このチッカリングのピアノは、そのままその部屋に残され、後にワイマールのリストの家に運ばれた。その後、グリークが「きょう、私はリストの壮麗な音のチッカリングを弾いた」と両親に手紙を書いたのはこのピアノである。

 一九〇四年にチッカリングはクォーターグランドピアノと呼ばれる、当時で最小のピアノを作り出し、さらにその工場ではバッハやスカルラッティ時代の音色に忠実なクラビコードのレプリカ(複製)の製作研究も進められていた。

 チッカリングは、一九〇九年にアメリカン・ピアノ社と合併、さらに一九三二年にこのアメリカンとエオリアンのそれぞれのグループが統一されたために、現在はエオリアン・アメリカン・コーポレーションの傘下にある。


改訂 楽器の事典ピアノ 平成2年1月30日発行 無断転載禁止



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