楽器の事典ピアノ 第4章 日本の代表的な2代ブランド明治三十三年に国産第一号

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世界のトップの座に輝く《ヤマハ》のピアノ

明治三十三年に国産第一号

 ヤマハ(日本楽器)が最初のピアノをつくったのは明治三十三年(一九〇〇年)のことである。これより先、わが国で何台かのピアノが輸入部品を使って組立てられたが、ヤマハはピアノの重要部品である響板、外装等を自社で製作した。したがって、現在ではこのピアノをもって国産第一号のピアノとするのが一般的である。 ヤマハがつくったピアノはカメン・モデルといったが、なぜこのピアノがカメン・モデルと呼ばれたかは明らかではない。 このピアノをつくる準備のために、日本楽器社長の山葉寅楠氏は、前年の明治三十二年五月にアメリカに渡っている。彼には文部省嘱託という肩書きがついていた。寅楠氏がこの肩書きを得ることができたのは、日本の洋楽器製造の振興に並々ならない期待をかけていた東京音楽学校(現在の東京芸大)校長伊沢修二氏の働きがあったからであった。
 寅楠氏は五月十三日、九千二百円の資金をたずさえ、横浜からチャイナ号でサンフランシスコへ向った。サンフランシスコには五月二十九日に着いている。この時から九月初旬まで、寅楠氏はあらゆる手づるを頼ってシカゴとニューヨークの工場をむさぼるように見て回った。楽器工場だけでなく、発電所や機械製造工場や鉄道車両の工場も見ている。睡眠時間は六時間を越えることがなく、ピアノのことを思いめぐらし。夜中に起きて考えることもしばしばあった。彼は十二年前、浜松で修理したオルガンのメーソン&ハムリンの工場へも行った。その日の日記にはこう記されている。
 「ピアノは自分積年思ひ居りし通りに製造せられたり。頗る残念に思へり」
 思いきってピアノをつくってみたかった寅楠氏の無念がうかがわれる。彼は持っていった金の中から六千四百円ほどを投じて、いくっかの工場からモデルとするピアノ、三十数台ぶんのフレーム(鉄骨)、アクション、ハンマー、それに木工機械と工具類を買っている。 部品は翌明治三十三年一月に到着した。ただちに製造を開始したが、ピアノはすぐ売れたわけではなかった。山葉直吉氏が記録したところにょりば、明治三十三年に二台、三十四年に六台、三十五年に八台、三十六年に二十一台売れている。フレームにはYAMAHAの文字が鋳込まれていてこれが大きな信用を博するもとになった。初めてつくったピアノではあったが、それはなかなかよくできていた。明治三十五年に売れた十三台目のピアノは、今も長野県立飯田高校の講堂にある。明治三十五年にはグランドピアノを完成させた。本格的なピアノエ業の始まりである。

山葉寅楠氏
 

山葉直吉氏


改訂 楽器の事典ピアノ 平成2年1月30日発行 無断転載禁止


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