楽器の事典ピアノ 第3章 世界の代表的ブランド 欧米遍 イバッハ

HOME > メディア > 楽器の事典ピアノ > 楽器の事典ピアノ 第3章 世界の代表的ブランド 欧米遍 イバッハ
  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加


世界的な名声を勝ち得た名器とその系譜

イバッハ

「スタインウェイやベヒシュタインよりも、五十九年古くドイツに生まれたピアノ。一七九四年、今から約百八十年前に誕生したドイツ最古の歴史を持つピアノ。それがこのイバッハです。およそ二世紀もの長い年月、音楽の豊かなドラマを彩り、支えてきたイバッハが、戦後二十八年来、長い沈黙を破って再び日本にやってきました。ここに名品中の名品、イバッハを手にされることは、ピアノを伴侶とされるあなたにとって無上の歓びとなるでしょう。」
 ……とパンフレットに記載されているが、残念ながら、このピアノは、我が国では、あまり知られていない。
 なお、「知る人ぞ知る名器には、長い歴史とドラマがあります。バセロン・エ・コンスタンタン、ストラディバリ、ロールス・ロイス……そしてピアノの名器イバッハにも」……とも書いてある。
(注)バセロン・エ・コンスタンタン­-スイス製腕時計。外観の単純美と精密度で名高い。
 イバッハのピアノの創始者であるヨハネス・アドルフ・イバッハは、一七六六年にバータンで生まれている。彼は若い頃、バイエンブルグの修道院でオルガンの演奏法と製作法を学んだが、最初の職業は子供用の靴の製造であったという。オルガンの製作技術と靴の製法がどうつながるのかは不明だが、やがて楽器の製作を志すようになったらしい。
 当時のドイツには、わが国の“武者修業”に似た、諸国を放浪して技術を磨く習慣があった。若いイバッハは、数年間、町から町へ村から村へと足にまかせて歩き回り、ドイツ中のオルガンとピアノのメーカーのマスターたちを訪ね、そのさまざまな技術を吸収して“免許皆伝”に当たるマスター・オブ・アートの技術を学び取った。
 彼が最初に作った楽器は、バイエンブルグの大オルガンのコピーであった。イバッハはアマチュアとしてはオルガンやピアノの演奏に優れていたが、メーカーとしては名実ともにまさにアマチュアで、技術としては、“武者修業”で会得したものしかなく、ただ優れた楽器を作りたいという情熱と、途方もない辛棒強さだけが強みで、手助けには奥さんと娘しかいないという、全くの手工業であった。しかし、彼の作ったこのオルガンは申し分のない、最高の出来栄えで、自称のマスター・オブ・アートも本物になった。
 イバッハは一七九四年に、ピアノの製作を開始している。その頃、新しく生まれたこの楽器は、急激に人々の間で愛好され始め、オルガンを作るより、ピアノメーカーになった方がはるかに歩がよかった。
 しかし、当時のピアノの製作はすべてオーダーメイドで、販売に関する心配こそなかったが、機械というものは全くなく、単純な道具だけを頼りに、すべて自分の力によって作り上げるのであるから、この職業は大変な難業苦業であったらしい。
 しかも、時代背景も悪かった。あたかもナポレオン戦争の真っ最中で、ドイツは経済的に極度に疲弊しており、イバッハは餓えと戦いながら重労働を続けたという。記録によると、イバッハ親子の三人は、一八一一年の一年間に十四台のピアノを、空腹と戦いながら作り出している。スタインウェイは逆境に耐えながら偉大なピアノメーカーとなったが、イバッハは飢餓に打ち勝って古今の名器を生み出したのである。
 しかしその体はスタインウェイほど頑強ではなかったらしく、長年の無理がたたって、五十九歳の時に、その職を当時二十一歳だったカール・ルドルフ・イバッハに譲っている。
 二代目であるカール・ルドルフ・イバッハは、彼の父の偉業を受け継いで、繁栄に導いていった。特に一八二五年以降においてはイバッハ一家は急激に栄えていった。カールは彼の販売市場を求め、さらに新しい技術と知識を得るために、機会あるごとにフランスとスペインに旅行し、さらにピアノの展示会や展覧会をもとめてさまよい歩いた。なお、イバッハの楽器は各地の展示会に持ち込まれ、多くの賞を獲得した。
 彼は、父親同様、粉骨砕身してイバッハのピアノを盛り立てたが、一八六三年四月二十五日にこの世を去った。
 イバッハの三代目は、カール・ルドルフ・イバッハの息子であるルドルフ・イバッハ・ジュニアによって引き継がれた。彼も二十歳の若さでイバッハの工場を受け継いだが、血は争えぬもので、その活動性に満ちた積極的な性格、旅行好きな点は、祖父や父親にそっくりであった。さらに、働き過ぎて早死する点まで似ていた。
 しかし、この三代目は、これらに加えて、天賦の奇才と未来を先取りする洞察力をあわせ持ち、工場拡大に驚異的な才能を発揮した。彼は、ヨーロッパ諸国を歴訪して、当時の有名な演奏家や作曲家とて親しくなり、彼自身の不思議に魅力的な性格によって、イバッハのピアノを、あらゆる音楽界の人々に知らしめる功績を立てた。
 その頃、リヒャルト・ワーグナーは、ルドルフ・イバッハ・ジュニアに、彼自身の等身大の写真を贈り、これに次のような文字を書き入れた。
 「親愛なる“音作りの達人”ルドルフ・イバッハ氏に心から感謝の意を表す」リヒャルト・ワーグナー 一八八二年。
 これは最高の讃辞であったといえよう。リスト、ザウアーその他の当時の多くのピアノの大家がイバッハの楽器を弾いたと伝えられている。
 しかし、ルドルフ・イバッハ・ジュニアは“音作りの達人”と賞讃されるだけに満足できず、ピアノのケースを芸術的なものに引き上げるべく最大の努力を払った。彼は装飾芸術に関する幾多のマスターたちを工場に迎え入れ、ピアノが芸術的な外観を持つ楽器となるように腐心した。一八八三年と一八九一年の二回にわたって、芸術的なピアノのケースのデザインのコンクールを開催して、受賞者には多額の賞金を与え、このコンクールにはドイツの著名な装飾設計家のほとんどが参加したという。これは、単にイバッハのピアノの芸術性を高めただけでなく、その後、あらゆる他のメーカーがこれに追随するという大きな影響を残したのである。現在、世界のさまざまなメーカーが作り出した、美しいアートピアノが多く残されているが、この功績はイバッハに帰せられるべきだろう。
 イバッハ一家は時代を先取りすることにかけては天才的だったが、ルドルフ・イバッハ・ジュニアもすばらしい先見の明を持っていた。
 この三代目は、自分自身もよく旅に出たが、彼は弟のワルター・イバッハに命じて世界中のピアノメーカーを巡歴させ、新しい技術を吸収させている。“高度の技術というものは、凡人の一人や二人が知恵をしぼっても簡単に考え出せるものではない。先覚者の技術を学んで盗むに限る”という思考のもとに、イバッハの歴代のマスターたちは諸国を飛び回った。この思考方法は、戦後の日本の産業の発達形態と酷似しているが、とにかく大成功を収めたのである。
 ワルター・イバッハは、まずブラッセルを訪れ、次にパリのガボーの工場で腕を磨き、やがてロンドンを経由してアメリカに渡り、ジョージ・ステックの工場を経て、ニューヨークでフェルトとハンマーの研究をして、約十年の研究旅行の末にバーメンの工場に戻った。彼の学び取った幾多の貴重な技術は、イバッハのピアノ製造を飛躍的に向上させ、さらに近代化させた。
 だが、三代目のルドルフ・イバッハ・ジュニアも、働き過ぎたためか、一八九二年七月三十一日に、四十九歳でこの世を去った。
 イバッハ一家のピアノは約百八十年間、連綿として作り続けられ、現在は六代目がその伝統を守っている。四代目はA・ルドルフ・イバッハ、五代目はJ・アドルフ・イバッハで、六代目はルドルフ・クリスチャン・イバッハとロルフ・イバッハである。
 ピアノの発達の歴史をたどってみると、いずれの有名メーカーも、ピアノの重要な機構についての改良や発明に関する重要なパテントの実績を残している。ところが、イバッハは約百八十年の実績を持っているにもかかわらず、何らのパテントの痕跡も残っていない。十九世紀のピアノの改良について詳述した、ある専門書の中にも、イバッハについて触れたものは、「ライプツィヒのヘイヤー・コレクションに、一八四一年に作られたバーメンのイバッハの、高さわずか一・一五メートルのミニピアノがある」という、わずか三行の項だけである。
 しかし、ピアノの製作の場合、いたずらに偏見や独善的な考えを固執するより、イバッハのように、世界のあらゆる楽器の長所を柔軟に取り入れるほうが賢明であるとも思える。この点においては、イバッハは、世界で最も理想的なピアノの名器といえるかも知れない。 イバッハの商標は長い歴史の間に(Adolf Ibach und Söhne)、(Carl Rudolf und Richard)、(Rudolf Ibach Sohn)と三度変っている。
 イバッハの現在の工場はウェストファリアのシュベルムにあり、ドイツの最古のピアノメーカーとして極めて優美で性能が抜群の各種のピアノを作り続けており、毎年のフランクフルトのフェアでは、その美しさが人々の目を奪っていると聞く。イバッハのピアノはグランド、アップライトともに無限といわれるほどの耐久力があるという定評がある。ピアノのロールスロイスといわれるゆえんであろう。

 (注)このピアノは、中道インコーポレーテッドにより我国に輸入されている。

 

改訂 楽器の事典ピアノ 平成2年1月30日発行 無断転載禁止


▶︎▶︎▶︎
▷▷▷楽器の事典ピアノ 目次
  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 
KAWAI
YAMAHA WEBSITE