楽器の事典ピアノ 第3章 世界の代表的ブランド 欧米遍 ブルッツナー

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世界的な名声を勝ち得た名器とその系譜
 

ブルッツナー

 ドイツは第二次世界大戦後に東ドイツと西ドイツに分裂したが、ベヒシュタインが西ドイツで最も優れたピアノであるというならば、ブルッツナーは東ドイツの最高のピアノであると断言できるであろう。 ブルッツナーの創始者であるジュリアス・フェルディナンド・ブルッツナーは、カール・ベヒシュタインとほとんど同じ時代、つまり一八二四年にメルセブルグの近くのフォルケンハインに生まれ、しかも、ベヒシュタインがベルリンで創業した同じ年の一八五三年にライプツィヒでピアノ工場を開いている。つまりこの両ピアノは文字通り東西の横綱として張り合ってきたのである。
 ベヒシュタインは天賦の音楽的才能を持っていたといわれるが、ブルッツナーはウサギのような鋭い耳を持っていたという。彼は、一八五三年まで、ツァイツのホーリング・ウント・スパンゲンベルグでピアノ商としての奥義を学び、さらに、当時グランドピアノのメーカーとして有名だったアレクサンドル・ブレットシュナイダーのもとで、ピアノ製造の技術を磨いている。ブルッツナーはベヒシュタインのように諸外国に対する知識こそなかったが、彼の鋭い聴覚によって自己流の方法でピアノを改良していったという。なお、ピアノのボイシング(整音)に関しては、当時彼の右に出るものは一人もいなかったと伝えられている。
 ブルッツナーは、グランドピアノの新しい形式のアクションを開発するなど、さまざまな改良を行っているが、その最大のものは、“アリコットシステム“と呼ばれる弦の装置である。この装置は、現在もブルッツナーの最高級のグランドピアノにつけられている。
 アリコットシステムは別名アリコットスケーリングとも呼ばれており、ブルッツナーの説明書には次のように解説されている。

「一派のグランドピアノの高音部の各音には弦が三本ずつつけられている。それにもかかわらず、ピアノの高音部の音は、その低音部の強大な音量に打ち負かされてしまうのが普通である。そのため、ピアノのメーカーは、長年の間この高音部の音を改良することに努力を積み重ねてきた。ブルッツナーのグランドピアノでは、アリコットスケーリングを採用することによって、この問題を解決している。アリコットスケーリングとは、一般の三本の弦の他に、さらに一弦増やして四本弦にすることである。ただし、この四本目の弦はハンマーによって叩かれず、共鳴の原理によって共振運動を起し、倍音を出す。このアリコットスケーリングの方法によれば、高音部のそれぞれの音の含有倍音が増加し、音色は極めて芳醇なものとなる。ブルッツナーのピアノの名声が高められている理由の一つとして、アリコットスケーリングは大きな力となっている」
 しかし、この方法はブルッツナーが発明したわけではない。バイオリン以前の古い弦楽器にもつけられていたし、現在のインドのシタールなどにもついている。また、チェンバロの名器を作り出したハンス・ルッカースも使っていたし、オルガンメーカーとして有名なゴットフリート・ジルバーマンも、この方法に似たチェンバロ・ダ・ムールという楽器を作っている。ただし、ピアノに応用したのはブルッツナーが最初であった。
 当時、ブルッツナーの工場のあったライプツィヒは音楽の中心地であった。ブルッツナーのピアノは、メンデルスゾーンが熱心に指導に当っていたライプツィヒの音楽学校に納入され、その名声はたちまち世界中に広がって行った。なお、ヨハン・セバスティアン・バッハに縁の深いライプツィヒは、音楽に関する作曲、出版および学校の中心地で、リヒァルト・ワーグナーはこの都市で生まれ、マックス・レーガーもこの地で死んでいる。つまり、ブルッツナーにとっては場所と時代が絶好であったのである。
 ブルッツナーのピアノは、一八六七年のパリ、一八七三年のウィーン、一八八〇年のシドニー、一八八一年のメルボルン、一八八三年のアムステルダム、一八八九年のメルボルンおよび一九〇五年のケープタウンの各博覧会でファースト・プライズを受け、一九〇〇年のパリ、一九〇四年のセントルイス、一九一〇年のブラッセルおよび一九二七年のジュネーブでグランプリを獲得、最後に、一九六九年のライプツィヒのフェアでゴールドメダルを受賞している。つまり、トントン拍子で世界的名声を獲得してきたのである。
 なお、このピアノが絶大の賞讃を受けるに至った一つの理由として、さきに述べたライプツィヒの音楽学校を忘れてはならない。この音楽学校は当時としては最も有名なもので、この学校には世界のあらゆる国から若いピアニストが集まり、モシェレス、プレイディ、ベンツェル、ラインネックなどの名教授たちからブルッツナーのピアノで指導を受け、世界に散らばっていったのである。このような理由で「ブルッツナーは宣伝のためインクと紙を節約した」と皮肉った本も残っている。ブルッツナーのピアノの生産台数は、一八八二年においてグランドピアノが千二百台、アップライトピアノが千八百台であったと記録されている。
 ジュリアス・ブルッツナーは、その晩年においてグレッチェルと共著に「ピアノ製作法」という本を書き上げ、サキソニーの王から経済の枢密顧問官という名誉ある地位を与えられ、さらに数々の勲章を贈られた上、八十七歳まで長生きして、一九一〇年にその生涯をライプツィヒで終っている。
 ブルッツナーの名器が作りだされた当時のドイツは王国であった。現在の東ドイツは社会主義国家である。時代はガラリと変ったがブルッツナーの伝統的な技術だけは確実に伝えられているという。ブルッツナーのピアノは、現在、東ドイツのデムッサ公団が取り扱っているが、現在までの総生産数が十四万台であるという以外は、あまり詳しいことはわからない。しかし、世界のピアノの名器として、少数ではあるが、浜松ピアノセンターによって輸入されている。

 

 
改訂 楽器の事典ピアノ 平成2年1月30日発行 無断転載禁止


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