楽器の事典ヴァイオリン 2章 オールド・ヴァイオリンの名器 24 世にも不思議な人物

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世にも不思議な人物

 世界中の音楽を愛好する人びとおよび楽器商でストラディヴァリの名を知らないものは極めて稀であろう。
 本物のポートレートはなく、さきに掲げた有名な細密画も想像で描いたものの一部であるし、イラストも、想像圉である。
 彼の長い生涯を年代別にたどって調べてみると、概略次の通りである。


☆1664年~1659年
 彼の幼年時代と少年時代の記録は、さきに述べた通り、謎に包まれており、全く解明できない。
 彼の生まれた年号は、彼自身が1732年に製作したヴァイオリンのラベルに89才と記されており、1735年の楽器には91才、さらにこの世を去った1737年に作った楽器のラベルには93才と書いてあることから推定されたものである。
 しかし、90才を過ぎた老人に、果して現在残されているような美しい名器が作れるであろうか。昔、いたといわれる仙人ならともかく、いくら名匠超人であろうとも90才を過ぎれば、眼はかすみ、手はふるえたに違いない。一説に ーこの年になってもこのような名器が作れるー という証明として晩年の作品には年齢を書き込んだのだと伝えられてもいるが、いささか信じ難い。
 しかし、最初の奥さんと5人の子供を作り、2度目の奥さんにも5人の子供を生ませた精力家であったのであるから事実かもわからない。
  
 (注) この件について、マントヴァの有名なスカランペラの3代目のマリオーガッタに尋ねたら、ストラディヴァリにはミストレスがいて、さらに4人の子供がいたという答えであった。さすがイタリアの男、男の鑑であると感心したが、これも信じがたい。
 
 彼の生まれる以前のクレモナには大異変が相ついで起きた。1628年には大飢饉が起き、続いて2年間は疫病が流行し、多くの人びとが街を捨てたり死に絶えたりした悲惨な状況が続いた。ストラディヴァリの師匠であった二コロ・アマティの父母もそして二人の妹も疫病で命を失い、彼だけが生き残ったと伝えられている。この激変の時代がストラディヴァリの若い頃の記録を失わせてしまったとも考えられる。
 なお、この時代にストラディヴァリがどんな職業についていたかは全く解らない。一説に木材の加工業者であったらしいと伝えられている。


☆1660年〜1683年
 二コロ・アマティの弟子の時代であった。その唯一の証拠としては、1666年のこの二人の名前が書かれたラベルのヴァイオリンが残されている。
 ストラディヴァリは、1667年に、夫が火縄銃で自殺した彼より4才下の若い未亡人と結婚し、その夫人との間に3人の娘と2人の息子を
作っている。1671年に生まれたフランチェスコと1679年に生まれたオモボノが、後に彼の技術を学びストラディヴァリの助手となって
いる。
 彼は妻と子供と幸福な時を過し、1680年にピアッツァ・サン・ドメニコの家を買い終生ここで働き通している。
 この家は、1階に店の他に2室と中庭があり、地下は倉庫、2階には7部屋もあり、テラスがあって新しい白木の楽器とニスを塗った楽器を乾かしたと伝えられている。                  。
 この時期に作られて現在まで残っている楽器はヴァイオリンが41本、ヴィオラが1本、チェロが3本、その他の楽器が3本である。

ストラディヴァリ1683 1679.png

[画像]右 ストラディヴァリウス 1683年 
左 ストラディヴァリウス 1679年 ヘリエ


☆1684年〜1689年
 初期の作品の時代。
 アマティの技術をすべて学び取り、師匠より優れたヴァイオリンを作り始める。
 その最大の特徴は、音量が増大し、その外観がアマティとルジェリに似ていたという点にある。
 1680年以後、その音質並びに音量は益々素晴らしくなり、製作技術も格段に精密となり、f字孔もやや大きくなっている。
 この時期に作られた楽器で現在残されているものはヴァイオリン40本、ヴィオラ1本、チェロ8本である。


☆1690年〜1699年
 ロング・パターンといわれる細長いヴァイオリンを、1692年から1693年まで、その代表的なものとして作っている。
 その胴の長さは、145/16インチ(約36.5cm)で、従来の楽器の14インチ(約35.5cm)と較べて、5/16インチ(約8mm)長く
なっている。伝えられるところによれば、ストラディヴァリは、ブレッシアのジョヴァンニ・パオロ・マジーニの作り出した音が強大でやや暗く形態も大きい楽器に感銘を受けてこの形式のヴァイオリンを作ったという。
 しかし、胴の長さだけを変更しただけではなく、全体のデザインも変更し、f字孔さえも大きくしている。
 その音色は、二コロ・アマティから引き継いで彼が作った楽器と比べた場合、その音のレスポンス(立ち上り)こそ些か劣っていたが、全く斬新なもので、音質は極めてスムーズで心地よく感じられ、やや暗い感じがあったが、浸透力つまり広い演奏会場の隅々まで響きわたる点では抜群のものであった。
 この時代において、彼は、マジーニを代表とするブレッシアのヴァイオリンの音色を越えた驚異的な楽器を作り出したのである。
 
 (注) 現在の新しく作られているヴァイオリンの殆どは、1700年以降のストラディヴァリやガルネリの代表的な楽器の寸法と形態を基本としているので、寸法や形態の点で心配はないが、オールド・ヴァイオリンやそのイミテーションのなかには、胴の寸法の意外に長いもの、ボディがスタイナーのように異様に膨んだもの、あるいは、18世紀の終わりから19世紀にかけて行なわれたダラフィティンダ ー楽器の音量を増大するために、殆どのオールド・ヴァイオリンは、ネックの長さ、指板の角度と長さ、駒の高さおよび力木の大きさなどが変えられた ーの結果、さまざまな才法のものがある。
 (注) 古い楽器を求める際は胴の長さ(現在の標準は14インチ約35.5cm)に注意すべきである。これより長い胴の楽器は腕の短かい奏者(特に女性)にとっては弾きにくく、無理をすると腱鞘炎などになる危険性がある。
 (注) さらに、ナットの端から胴の上部までの寸法と、胴の上部から駒の先端までの寸法が3対2になることも重要である。これが狂っているとハイポジションの演奏法が困難となる。
 
 現在でも少数の奏者はこのロング・パターンを好んでいる。
 しかし彼は、1699年頃、この形態のヴァイオリンの製作を中止している。
 この時期に作られた楽器で現在残っているものはヴァイオリンが80本、ヴィオラが6本、チェロが16本、その他が1本である。


☆1700年〜1716年
 ストラディヴァリの黄金時代である。
 彼は、この時代に、1660年代に二コロ・アマティが創り出した「グランド・パターン」とよばれる優雅なヴァイオリンを改良して、現在世界中の殆どのヴァイオリン奏者が使っている、理想的な設計の楽器を作り上げたのである。
 彼は、この頃から極めて美しい木目の楓やスプルースの材料を使い、秘密とされている特殊な配合の、柔らかくて耐久性のあるオレンジ・レッドのニスを使い、現在では秘宝と言われる少なからざる数々の楽器を生み出した。
 一般に、この時期の楽器が最も優れていると伝えられているが、これは必ずしも正しくはないという異説もある。
 ストラディヴァリは、この体力、気力並びに技術が最も充実した期間に、莫大な数の作品を残しだのは事実であるが、彼は、その天才的な技能を駆使して、生涯理想の楽器の完成を追求し続けたのであるから、若い時期のヴァイオリンにも、また最晩年のヴァイオリンにも理想に近いものが多く残されている。
 さきに述べた通り、ストラディヴァリという偉大な人物についてのポートレートは一切残されていないし、その数多い研究者の中にも彼の人物像を文章で描写したものすら殆ど見当たらない。        
 唯一の記録は、ストラディヴァリの最初の研究書をJ・B・ヴィヨームの協力で出版したフェティの記録である。彼はその中で、当時の有名なヴァイオリン奏者であったジョヴァンニ・バティスタ・ポレドロが、次のような言葉を残していると記録している。
 ーストラディヅアリは背の高い痩せた男であった。いつ見ても同じ仕事着をつけており、これを脱いだことがなく、年中熱心に楽器ばかり作り続けていた。ー
 しかし、この記録も、ポレドロの生まれた年は、ストラディヴァリの死後、44四年目であるから、伝え聞きに違いなく、確証はない。
 とにかく、彼は、この黄金時代に猛烈に働き続けたことだけは事実で、彼のライバルであったガルネ・デル・ジェスの波瀾万丈の生涯などとは全く関係がなく、生涯生真面目な、昔の修身の教科書に出てくるような人物であった。
 無数の名器を作った以外に残された記録は、フィクションは別として、多くの子供を作ったという話だけである。
 彼の最初の妻であるフランチェスカ・フェラボッシは、1698年に、5人の子供を残して、この世を去っている。既に大金持となっていたストラディヴァリは、盛大な葬儀をした後、2度目の妻である、20歳も若いアントニア・マリア・ザンベリを迎え、さらに5人の子供を作っている。
 ストラディヴァリの2番目の奥さんは、眼を見張るような美女であったと伝えられている。
 黄金時代の彼の家の中は、文字通りコドモたちで、ゴッタガエシであったに違いない。
 夫婦と十人の子供、多くの弟子たち、ヨーロッパ中から集まった注文主たちで足の踏み場もない大混乱であったと思える。
 この時代に彼が作ったヴァイオリンのなかに世に知られた名器が2本ある。
 最初のものは1704年に作られた「ベッツ」と名付けられた楽器である。
 この楽器は珍らしくも素晴らしいケースに入っていた。最初の所有者は解らない。
 1820年のある日、あやしげな風体のみすぼらしい男が、ヴィオッティにヴァイオリンを習っていたアーサー・ペッツの店に、ヴァイオリンを1本持ちこんで、21シリングで買ってくれと頼んだ。ペッツはこの素晴らしいストラディヴァリを20シリングに値切って買った。19世紀最大の金儲けをしたわけである。
 この名器は、その後、J・B・ヴィヨーム、ヒル商会、ウーリッツァー社などの手を経て、現在ワシントンD.C.の国会図書館にある。
 この楽器の価格は現在では天文学的数字の値段であろう。
 他の1本の楽器は1716年に作られた「メシア」-ユダヤ人が待ち望む救世主、キリスト教ではキリストのことー である。
 ストラディヴァリは後にこの「メシア」と名付けられた名器を、自分の生涯の最高の傑作と信じ、最後まで手放さなかった。
 この楽器こそ誰にも弾かれず、完成されたまま保存されてきたものである。
 彼の死後、息子のパオロ ー彼は繊維商人であったー が、この宝物を1775年に、有名なイタリアの楽器のコレクターであったコジオ伯爵に売った。
 これをルイジ・タリシオ ー彼はヴァイオリンの怨霊に憑かれた奇人で、イタリア全土を遍歴して、千一夜物語にでてくるアラジンの古い魔法のランプを新しいランプと取り替えるような方法で、あらゆる教会、宮廷、城主その他から無数のイタリアのオールド・ヴァイオリンを掻き集め、これを袋に入れてアルプスを越え、パリのJ・B・ヴィヨームなどに高価に売り付けて大金を稼いだ男であったー がコジオ伯爵から求めた。
 しかし、流石のルイジータリシオもこの名器だけは手放せず、彼がミラノの倉庫のような一室で無数の名器を抱きながら孤独で死んだ時、この「メシア」は誰の手でも弾かれずに残されていた。彼の死後、この楽器はJ・B・ヴィヨーム、ヒル商会などの手を経て、現在はオックスフォードに永久保存されている。
 この他にストラディヴァリがその黄金時代に作った名器には、クライスラー、サラサーテ、ピアティゴルスキーおよびハイフェッツ等が弾いたものがある。
 この黄金時代に作られた楽器で現在残っているものはヴァイオリンが206本、ヴィオラが5本、チェロが16本、その他が2本である。
クレモネーゼ.png

☆1717年〜1728年
 円熟期といわれる時代である。
 1724年にはストラディヴァリは80才になっていたはずである。
 しかし、この時代の作品には些かも年齢的な衰えが現れていない。
 しかし、助手は増えていた。
 息子のフランチェスコとオモボノの二人を始めとして、後のイタリアの名器の製作者となったガルネリ・デル・ジェス、ロレンツォ・ガダニーニ、カルロ・ベルゴンツィ、フランチェスコ・ゴベッティ、アレッサンドロ・ガリアーノ、ドメニコ・モンタニャーナおよびトマソ・バレステリエリなどの錚々たる達人が少なくとも10人以上もいたと云われている。
 しかし異説も多い。特にガルネリ・デル・ジェスはストラディヴァリとは仕事をせず彼の父からヴァイオリンの技法を習得したという説が強い。
 この時代に作られて現在まで残っているものは、弟子が多かったためか、意外にその数が多くヴァイオリンが179本、ヴィオラが3本、
チェロが13本、その他が2本である。
ストラディヴァリ1720 (2).png
ストラディヴァリ ビーナス.png

[画像]ストラディヴァリウス 1727年 ビーナス


☆1729年〜1737年
 老年期である。
 眼はかすみ、耳は遠くなり、手はふるえ、中国流に形容すれば、「鶴乱れて麻の如し」となったはずである。
 しかし、ストラディヴァリは超人であった。
 世の中にはこのようなスーパーマンもいたらしい。ミケランジェロは晩年にサンベトロ寺院のドームの設計をしているし、ハイドンは70才代の終りで最後の名曲を書き残しているし、ヴェルディは、79歳で、愛とユーモアを主題とした彼の最高傑作である「フォルスタッフ」を完成している。
 しかし、いかに超人であったとしても、果して90才を過ぎて、精密な手加工を必要とするヴァイオリンの名器が作り出されたであろうか、ここに大きな疑問が浮んでくる。
 しかし、事実はそれを証明している。
 名ヴァイオリン奏者であったクライスラーは1734年と1733年作の2本のストラディヴァリウスを弾いていたし、後者の楽器は、後にハイフェッツが引き継いでいる。なお彼は1734年のストラディヴァリウスも持っていた。メニューヒンは1733年作、ジンバリストは1753年作の名器を弾いていた。
 さらに、フーベルマンも1734年の楽器を愛奏していた。
 それらの1本は89才の時の作品、他はいずれも90才を過ぎてからの作品である。
 晩年の楽器として現在まで残されているものは、ヴァイオリンが604本、ヴィオラが2本、チェロが7本である。なお、その中に、彼がこの世を去る年に製作したヴァイオリンが3本含まれている。
 
 (注) さきに述べたコジオ伯爵は、1775年に最高の名器「メシア」をはじめとする多くの楽器と共にストラディヴァリの息子のパオロからストラ ディヴァリの残した覚え書き、手紙、工具、冶具、および、これは確実ではないが、ニスの調合法の秘密などをすべて買い取った。この一部が現在クレモナ市に保存されているのである。

 このコジオ伯爵の遺した日記が、1950年に出版されている。その中に、彼は、ストラディヴァリの楽器の製作年代を書き換えたという記録がある。彼は、その父以来の、歴史上最大のヴァイオリン・コレクターであり、さらに、やがて、狡猾なヴァイオリン商に変貌したと伝えられている。こうなるとストラディヴァリの正確な製作年代などは益々つかみにくくなる。




楽器の事典ヴァイオリン 1995年12月20日発行 無断転載禁止



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