
哀しい時代を越えて
しかし、この三越での2度目の展示会と時をほぼ同じくして起きたいわゆる満州事変、続く日華事変、そして太平洋戦争が、このヴァイオリン熱に歯止めをかけた。1935年頃から終戦の1945年までは、日本にとって誠に哀しい時代であった。若者たちは赤紙(招集礼状)1枚で徴兵されていき、敵対する国々の音楽は「敵性音楽」(主としてアメリカ音楽)として、禁じられた。つまり、この10年間、戦争の重圧が多くの国民の上にのしかかっていたのである。もっともドイツ音楽は同盟国音楽であるからという理由で、これを排除しなかったから、結局は西洋音楽の灯を消すような奇妙なことにはならなかったのだが…。
やがて戦後を迎えたとき、人びとは欧米音楽にとびついて、一斉に解放の喜びを謳歌、表現しはじめた。そのブームの最初の担い手として登場したのはギターであった。戦後2年を経た頃からあたかも燎原の火のごとく、猛烈な勢いでギターが日本全国に広まっていった。それはスチール弦を使った、いわゆる現在のクラシック・ギターとフォーク・ギターの混血児のようなものであったが、若い人びとは一斉にギターを求めて音楽を楽しんだ。
ヴァイオリンのブームが訪れたのも、ほとんど同じ頃のことである。しかしながらギターのような大衆的な広がりかたとは、普及の仕方が全く違っていた。さきに述べた鈴木鎮一が松本で才能教育研究会を興したのち、この教室の指導者たちを中心にして全国的な展開をしたのである。
才能教育研究会以外にも、個人的な教室が日本中に作られ、最盛期が出現したが、その後オルガン(はじめはリードから電子オルガンに発展)教室、そしてピアノを主とする音楽教室などが多くの生徒を迎え入れた。また、小学校で教師がヴァイオリン合奏を採り入れ、音楽教育学習活動の一環に役立てるということも少なくなかった。全国どこへ行っても、ヴァイオリンのアンサンブルの演奏会を聴くことができる一時代が出現したのである。
こうしたさまざまな教室は、その後の日本の音楽教育の広がりに大きな役割を果たしていった。日本の音楽文化の土台を築いたものの1つにこれら音楽教室の存在があったと言っても、過言ではないであろう。
楽器の事典ヴァイオリン 1995年12月20日発行 無断転載禁止
▶︎▶︎▶︎序章 3 50本以上のストラディヴァリウス
▷▷▷楽器の事典ヴァイオリン 目次