楽器の事典ピアノ 第3章 世界の代表的ブランド 欧米遍 〈オーストリア〉ベーゼンドルファー

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世界的な名声を勝ち得た名器とその系譜

〈オーストリア〉ベーゼンドルファー

十九世紀にはヨーロッパの音楽の中心地であったオーストリアのウィーンに、驚くほどの数のピアノメーカーがあった。ウィーンは当時グランドピアノの故郷とも呼ばれていたのである。ピアノには、“ウィンナトーン”と呼ばれる特殊な魅力の音色のものがあったという。ベートーベンも、一八一六年にウィーンの女性のピアノメーカーであったナネッタから、当時最も進歩していた、音域が六オクターブ半の楽器を贈られ、彼の全作品のほとんどは、この熱心な後援者であったナネッタのピアノで作曲されたといわれている。
 当時のウィーンのピアノメーカーは、今となってはほとんど消え失せているが、ベーゼンドルファーだけは、群を抜いて傑出したピアノとして現在なお作り続けられ、伝統的な“ウィンナトーン”と呼ばれる美しい音色を伝えている。 
 ベーゼンドルファーの創始者であるイグナッツ・ベーゼンドルファーはキャビネットメーカーであったヤコブ・ベーゼンドルファーの子供で、一七九四年にウィーンで生まれ、十九歳の時にジョセフ・ブロードマンの徒弟となった。
 ジョセフ・ブロードマンは、十九世紀の初期のパイプオルガンおよびピアノのメーカーで、極めて優れた技能を持ち、特にグランドピアノの製作に特殊な才能を備えていて、一八二五年に割れたり裂けたりする心配の全くない特殊な耐久性のあるサウンドボードを開発している。イグナッツ・ベーゼンドルファーは、十九歳の時からこのジョセフ・ブロードマンのもとでピアノ製作の腕を磨いた。「優れたマスターは天才的な弟子を見つけ出す」という言葉があったというが、ブロードマンはすばらしい弟子を育て上げたのである。
 ベーゼンドルファーは、一八一五年に塑造芸術関係の装飾絵画展で最優秀賞を取り、一八二八年にはウィーン市長からピアノマスターとしての栄誉ある資格を与えられている。彼は約三十年にわたるピアノの製作活動をしているが、その間に、この楽器に関する数多い貴重な改良をなし遂げた。
その頃、ピアノの魔神といわれるフランツ・リストがいた。もっとも、まだ若年ではあったがその名声は高く、驚異的な演奏技術を持っていたがピアノに対しては実に要求が多かった。このリストがウィーンでリサイタルを催した時、あまりのすさまじい腕力に、どのメーカーのピアノも二、三曲弾くとたちまち調子が狂って演奏不能となってしまった。
 これに困り果てたリストは、友人のすすめによって、試みにベーゼンドルファーのピアノを使ってみた。ところが、この楽器だけは彼の物すごいタッチにも耐え、リサイタルが終わった時に少しも狂っていなかったという。この事実が当時のセンセーションとなって、若いベーゼンドルファーの名声を確立し、彼のピアノの評価を不動のものにした。そして、この成功がリストとベーゼンドルファーの親交を生み出したのである。
 リストはベーゼンドルファーのピアノに対し、のちに「貴方のグランドピアノの機能の完璧さは、私の期待する理想をはるかに超えるすばらしいものである」と手紙で書き送っている。古今東西きってのピアノの巨匠が賞讃したのであるから、ベーゼンドルファーは名器中の名器とされたのである。
 ピアノはその発達過程において、その当時の有名な演奏家のアドバイスによって改良されてきた場合が極めて多い。つまり、優れた奏者の希望が楽器製作上の技術に具現化されて現在のすばらしいピアノが生まれてきたのである。歴史上の名演奏者は必ずといっていいほど、特定の楽器、あるいはニ、三種類のピアノに讃辞の言葉を残している。
 しかし、ここに一つの疑問が浮かぶ。多少の好ききらいはあったにせよ優れたピアノは間違いなくすばらしい楽器で、名器といわれる数多くのものにさほどの優劣はなかったはずである。
 バイオリンの奏者はストラディバリウス、ガリネリウス、アマティ、スタイナーあるいはビョームなどの、いずれの優れたマスターの名器でも弾き、あえて特定の楽器に限定するようなことはしない。そこで考えられるのは、ピアノメーカーと名奏者たちとの結びつきということである。特にピアノが大量生産され、商業主義が発達した頃からこの傾向が強くなったという。十九世紀の末期以降では、特にアメリカにおいてメーカーが名奏者のパトロンとなって経済的援助を与えるケースが多くなった。 ピアノの演奏家にとっては、バイオリンのように自分で持ち運ぶことは不可能なので、演奏会場のピアノの優劣、およびその調整の是非は、彼らの名声を左右する重大なことである。そのため、その心配をなくして双方の利益が得られるのだから、ベートーベンがナネッタの援助を受けたように、この傾向が多かったことは是認してしかるべきだろう。なおピアノの巨匠たちは、いずれも楽器の性能の判定に関しては最高の判断力を持っていたに違いない。

さて、リストの時代には商業主義がさほどに発達していたわけではないので、ベーゼンドルファーをほめたたえたのは真情であろう。 二十世紀の初めに、著名なピアニストたちが残したピアノの名器に対する推薦の言葉を集めた珍しい記録がある。参考までに、その名奏者と好んで演奏した楽器の名称を拾い上げてみよう。

 ▼リスト=エラール、ベーゼンドルファー、スタインウェイ。

 ▼ルビンシュタイン=アーバー、プレイエル、ブルッツナー、スタインウェイ、その他多くの種類の楽器。

▼ラファエル・ジョゼフィ=ベーゼンドルファー、ブルッツナー、エラール、チッカリング、スタインウェイ。

▼パッハマン=ボールドウィン。

▼ビューロー=ベーゼンドルファー、チッカリング、アームラー、ブロードウッド。

▼テレサ・カレノ=ブルッツナー、シードマイヤー、ウェーバー、スタインウェイ、エベレット。

▼オシップ・ガブリロビッチ=ベッカー、エベレット、メーソン・アンド・ハムリン。

▼モーリッツ・ローゼンタール=ベーゼンドルファー、スタインウェイ、ウェーバー。

▼ソフィー・メンター=エラール、スタインウェイ、ベーゼンドルファー。

▼パデレフスキー=スタインウェイ、エラール、ウェーバー。

▼ジョセフ・ホフマン=ウェーバー。

▼シュレーダー=スタインウェイ。

以上を見てもスタインウェイとベーゼンドルファーはコンサート用のピアノとして圧倒的に愛用されたことがわかる。

一八三九年と一八四五年にウィーンで開かれた工業博覧会で、ベーゼンドルファーは最優秀賞のゴールドメダルを獲得し、オーストリアの皇帝は一八三九年に、ベーゼンドルファーに対して宮廷用ピアノメーカーという破格な栄誉を与えている。

イグナッツ・ベーゼンドルファーは、彼のピアノをより優れたものにするために、ドイツ、フランスおよびイギリスを巡歴してピアノ製作の技術を各国から吸収した。彼の作った優れた楽器の需要は、その頃から急増しニューウィンナと呼ばれる場所に新しい工場を建設せざるを得ない状態となった。しかしながら、彼は、一八五九年にこの新工場が始動する直前に不幸にして六十五歳でこの世を去っている。

イグナッツ・ベーゼンドルファーの偉業はその息子であるルードウィッヒによって受け継がれた。彼は一八三五年に生まれているが、新しい工場を益々発展させ、ベーゼンドルファーの名器を世界に紹介するという功績を立てた。さらに一八六〇年には特殊なピアノ・アクションの特許を取ってその事業を確固たるものにしている。

 

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図1 ルードウィッヒ・ベーゼンドルファーの肖像の戯画

ルードウィッヒのもう一つの偉業にベーゼンドルファー・ホールの建設がある。このコンサートホールはニューウィンナの新工場の隣合わせの場所にあり、リヒテンシュタイン皇子の乗馬学校を建て替えたもので、収容人員は二百人であったという。そのコケラ落しは一八七二年十一月十九日、ハンス・フォン・ビューローのピアノリサイタルであったと記録されている。

このホールの音響効果はすばらしいもので、その後四十年もの長い間、ウィーンの最高のコンサートホールとして世界中の名ピアニストたちによって使われ、その使用回数は四千四百回余りにもおよんだ。
このベーゼンドルファーホールは、不幸にして一九一二年閉じられているが、音楽の都ウィーンの最高の演奏会場として最大限に活用されて、世界の音楽界に絶大の貢献をした。
 ベーゼンドルファー親子は、ただ単なる優れたピアノメーカーであっただけではなく、あらゆる音楽活動への援助、教育機関へのピアノの寄贈、奨学金制度による若い音楽家の育成など、音楽のための尽力を惜しまなかった。ルードウィッヒ・ベーゼンドルファーは彼が作り出した最高品質のピアノで世界的な名声を獲得すると同時に、オーストリア帝国の名誉ある経済顧問官となり、さらにナイトの称号を与えられ、最高勲章を授けられている。
 しかし、第一次世界大戦が終った頃から、オーストリアは大変なインフレに見舞われ、貨幣価値の暴落によって、ベーゼンドルファーはすべてのものを失ってしまうことになった。オーストリア帝国も崩壊し、ウィーンの繁栄と音楽文化も後退し始め、ベーゼンドルファーは傷心の余り、一九一九年五月六日にこの世を去った。
 第二次世界大戦のため、オーストリアは政治的にも経済的にも苦境に立ったが、ベーゼンドルファーの栄光は保ち続けられ、そのピアノは今日においても世界各国の多くの音楽家によって称えられている。ベーゼンドルファーのピアノは、現在も伝統的な技術を守り、最高の技術者が、熟練した技術も傾注してコンサートグランドを専門に作り続けている。従って生産台数は極めて少ない。

このピアノの最大の特徴は、そのハイ・テンションの華麗な音色もさることながら、音域が普通のピアノに較べて広いことにある。

ベーゼンドルファーの五十年祭の際に、ウィルヘルム・バックハウスは次の通りの賛辞を贈った。

「私は、私の指が鍵盤に触れた瞬間から、ベーゼンドルファーのピアノに完全に魅惑されてしまった。そして、この楽器が自ら生命を持ってひとりで鳴り出すような、不思議な機能をかみしめて味わった。それはピアニストが切望する音色とタッチに大変忠実で、いささかの抵抗もない素直なものであった。このピアノの中音部は発音が極めて敏感で、あたかも朝日に輝く夜明けの露のような、美しくて味わいの深い音色を持ち、これに対応するダイナミックな低音部とブリリアントな高音部の音が、感動的なフォルティッシモから、優雅なピアニッシモに至るまでの情感を余すところなく表現してくれる。

ベーゼンドルファーは、単に偉大な性能を持つピアノであるだけでなくウィーンの音楽文化を理想的に継承したものであると私は信じる」

このピアノが数多くの歴史的な音楽家を育て上げたウィーンで生まれたことは決して偶然のことではない。つまり、この名器が誕生した時にはシューベルトが生きていたのである。シューベルトはベーゼンドルファーのゴッドファーザーであると断言しても過言ではないであろう。

世界のピアノの名器として、百五十年以上の歴史を誇るベーゼンドルファーの生産量は、ピアノアトラスに見られる通り、一八二八年の創業以来一九七三年までの百四十五年間でわずか三万台。年平均二百台(この間に第一時、第二次世界大戦や数回の革命があった)である。しかし、一九六六年以降、アメリカのキンボール社の傘下に入ってからは、現在では年産七百代に達している。

このように、ベーゼンドルファーのピアノの生産量が少ない理由は、一台のピアノを完成するのに八百~一千時間を必要とし、その最終調整と調律整音に同じくらいの時間を要するためである。ベーゼンドルファーがピアノのロールス・ロイスといわれるゆえんがそこにあるのである。

現在、世界最大のピアノといわれているのが、ベーゼンドルファーのコンサートグランド290(インペリアル)九十七鍵でその特徴は次の通りである。

  • 低音部の鍵盤が普通の八十八鍵のピアノより九鍵多い。この超低音の果す役割は、音楽の幅を広げると共に、弦の共鳴によって普通の最低音部の約二オクターブぐらいの範囲の音色を美しくすることにある。

普通のピアノ曲ではこの音域の鍵を使うことはないが、クラシック関係ではバルトーク、ストラビンスキーの作品、ジャズ関係ではオスカー・ピーターソンの曲などで使われる。

 ◆この音域の鍵盤は、数年前までの楽器には木製のフタがつけられていたが、現在はすべて黒い鍵盤でつくられている。なお、ブランドやペダルなどは八十八鍵の中心につけられているので演奏姿勢には変りはない。この超低音の弦を調律する場合、耳だけでは聞きにくい点もあるので、弦の中央を軽く押えてオクターブ上の音を出して合わせたり、十度あるいは短七度を使って合わせるなどの方法があるが、倍音が安定しないため、優れた調律技術が要求される。

⑵アクションはダブルスプリング方式のものを使用している。ベーゼンドルファーのアクションは五年ほど前まではシュワンダー方式のものであったが、現在はダブルスプリング方式に改められ、レンナー社に特注している。

鍵盤のタッチに関する諸データは、深さが白鍵で九・八ミリ、重さは鍵盤を押し下げる時の力が低音部で五十五グラム、高音部で五十二グラム元に戻る時の力が二十グラムである。

⑶ベーゼンドルファーのペダルはスタインウェイより軽い。ペダルが軽いということはハープペダルの操作が容易であることを意味する。ソフトペダルについても同様である。

⑷ボディの共鳴度が優れている。ピアノのケースも響板と同様に共鳴体の役割を果すが、ベーゼンドルファーでは特にこの点が留意されており、ボディーの材質は響板と同じくスプルースで作られていて(その上に化粧板が張られている)、ボディーのカーブの部分もベニア形式でなく、内側に溝を入れて曲げたものである。なお、支柱もスプルースの三枚合わせで作られるので、音響効果は極めて優れたものとなる。

⑸鉄骨が特殊である。フレームの材質、シーズニング、磨き出しなどが優れていて、耐久力があるのはいうまでもないが、カポダスト・バーが別についていて、アジャストして取り付けられるように設計してある。そのため弦の角度が正しく、音質が良く、中音から高音にかけてのブレーキングポイントが全く聞き取れないほどである。なお、アグラフの部分にスチール棒が入っていて、耐久力と音質の点で優れている。

⑹このほか、チューニングピン・ブロックの穴がテーパー状になっていて調律が長持ちする。高音部の弦がすべて一本掛けとなっている。サウンドボードの面積が広い。中音部から高音部にかけてのダンパーの形式が特殊で四点で弦を押えるようになっている――んど、数々の特徴を持っている。
 ピアノの音色は、時代の変還によって次第に変化してきたといわれている。しかし、このベーゼンドルファーだけは、百五十年もの長い間、ウィンナトーンという伝統の音を守り続けている。 ベーゼンドルファーの百五十年祭の録画には、一八七五年のウィーン美術博物館に保存されているピアノ、一八八五年のアーチ型の鍵盤の楽器、一八六七年のナポレオン三世妃のピアノ、および現在の楽器の演奏が次々に現れるが、いずれも時代を超えたすばらしい魅力のある音である。
 ウィンナトーンをひとことでいえば、人間の歌声やバイオリンの音のように、たとえようもない魅力を持った音色、と表現することができよう。強大なオーケストラに対抗して、スタインウェイを初めとする、強大で輝かしいパーカッション的なピアノの音色がイニシアチブを取っている現在、ベーゼンドルファーは、朗々と響き渡るシンギングトーンの楽器として、別な面で王者の地位を保ち続けているのである。 なお、ベーゼンドルファーでは最近モデル130と呼ばれる、高さ百三十二センチの理想的なアップライトピアノの製作を開始した。各国からの注文が三百台を越えて、製造が間に合わない状態であると聞くが、日本でも一九八一年十月から輸入販売されている。 ベーゼンドルファーのわが国の総代理店としては、一九七九年に開設された日本ベーゼンドルファーがある。この販売部門となっているのが、すぐ近くにある磐田市の株式会社浜松ピアノセンターである。この会社は一九六四年に設立された輸入ピアノ専門の商社で、歴史は短いが、一階、二階の広大な展示場に、ベーゼンドルファーの全機種のほか、西ドイツのベヒシュタイン、東ドイツのブルッツナー、チンメルマン、オーガスト・フォルスター、アレキサンダー・ハーマン、ポーランドのカルシア、レグニカ、などの名器がグランド数十台、アップライト百台以上陳列されており弾き比べることができるようになっている。 バイオリンを選択する場合は、各種の楽器を並べておいて、自分の愛用の弓で次々と弾き比べることができるが、ピアノの場合、特にグランドピアノを弾き比べることができるが、ピアノの場合、特にグランドピアノを弾き比べることができる展示場は、わが国には極めて少ない。アコースティックのピアノは、電子、電気ピアノに比べて、一台一台音色が微妙に異るものである。この意味で浜松ピアノセンターの展示場は大変便利な施設といえるだろう。 そして、現在は前に列挙したようなヨーロッパの数多くの名器の日本総代理店として、業界でもきわめてユニークな存在となっている。

 

改訂 楽器の事典ピアノ 平成2年1月30日発行 無断転載禁止


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