楽器の事典ピアノ 第6章 日本の主要ブランド一覧  3 松本ピアノ

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[画像]松本新吉氏が渡米の際に使った“赤い皮表紙の手帖”。その際の日記が記されている。

わが国のピアノ製作のあゆみ

創世期の先駆者たち

松本ピアノ


 西川ピアノに続いて関東地方に出現したピアノメーカーが松本ピアノである。20世紀の初頭から終戦の年までピアノを作り続け、現在でも千葉県君津市で有限会社松本ピアノエ場として、少数ではあるが、永い伝統によって培われた優れた楽器を作っている。
 松本ピアノに関する記録もほとんど残されていないが、幸いに、「エチ松本工場沿革」という一文があるので写し取ってみよう。
『現今斯界の権威として御愛用各位の賞讃の栄を忝ふしつつピアノの製作所の歴史は遠く明治25年の昔でありまして、地を帝都東
京に定め、専らオルガンの製作に従事致して居たのであります。
 当時、西洋音楽の普及は微々として振わず、経営上幾多の困難と闘ひつつも、明治30年に至りて遂にピアノの製作に成功しましたが、未だ技術稚にして其の成績の見るべきもの多からず、一方西洋音楽の普及は漸く盛んならんとするに伴れ、舶来ピアノの輸入は其愈愈多きを加へ、国産ピアノの前途は誠に憂ふ可さものが多かったのであります。爰に於て、所主大いに憂ひ、敢然意を決し、明治33年、ピアノ製作研究の為め米国に航し、ニューヨーク市なるブラッドベリー・ピアノ会社に於て研鑚の功を積み、帰朝後はその豊富なる知識と完備せる設備に依り、優秀なるピアノ製作に成功し、内外専門大家の称讃を愽したのであります。
 続いて当主松本広渡米し、ニューヨークなるブラッドベリー・ピアノ会社、パーマー・ピアノ会社、リバースーエンドーハリー・ピアノ会社等の研究生となり、専心ピアノ製造技術の奥義を極め、帰朝後諸般の改良を計り、世界的優良ピアノの製作に専念し、大正12年大震災直後工場組織の大改革を断行し、爾来其の製品は各学校始め専門大家の愛用さるる処となり、更に昭和4年には世界各国のピアノ製造会社に於て最も至難とさるる本格的コンサートグランドピアノの製作に成功し、以て今日の盛名を博するに至りました。由来
広告宣伝等に重点を置かざる我エチ松本ピアノは、今日も尚、是等に要する諸経費を、転じて研究費の一部に当て、我々として、製品の改良研究に努力しつつあります。故に此の優秀なるエチ松本ピアノの声償は多年の努力研鑚に因る当然の結果でありまして、エチ松本ピアノの愛用は国産保護、産業立国の精神に添ふべき、貴重なる使命と信ずる処であります。希ば御愛用あらん事を。』
 これは1930年代に書かれたものと推定されるが、これは二代目の松本広氏の頃のものである。
 
 松本ピアノの創始者 松本ピアノの創始者である松本新吉氏については、現在松本家の菩提寺の住職である大場南北氏が。きみつ文化”とよばれる郷土史的な雑誌に、「松本新吉伝」という伝記を書き続けている。
 この長大な伝記は、未完のものであるが、その内容は極めて精密でしかも正確であるために、以下その骨子を転載させて載くことにした。

 幼少時代 松本新吉氏は、1865年に、周准郡常代村で父治郎吉、母みやの長男として生まれているが、”この子、まさに上総の神童” といわれるほどに利発で、寺子屋で二十四考や論語、孟子の素読を聞いてたちまち記憶するほどの才能があったと伝えられている。
 なお、当時の遊び仲間に、後の箏曲の大家となった今井慶松かおり、新吉少年は里神楽の笛を演奏することも、笛を作ることにかけても名手で、その頃からすでに音楽的な奇才を持っていたという。新吉少年は、その後
隣村の左官屋で働くことになった。

 西川時代 松本新吉氏は、1883年に。“るい”さんという最初の奥さんと結婚している。新郎19才、新婦15才であった。
 彼は、1887年に西川オルガン製作所に移っているが、その結びつきの理由は判然としない。多分“るい”さんが西川虎吉氏の姪であったためであろう。
 彼と西川オルガン製作所との関係は1ヵ年余り、あるいは3ヵ年ともいわれているが、いずれにせよ極めて短期間であった。
 しかし、この短い間に彼は驚異的な才能を発輝し、外人技師たちからオランダ語や英語を学び取り、オルガン、ピアノの調律、修理の技術はいうまでもなく、その演奏法すら身につけたという。しかしながら出る杭は打たれるというたとえの通り、他の工員たちや西川虎吉氏の一粒種である安藏のそねみを受けたことは致し方ない事実であった。

 紙腔琴を作り始める 松本新古氏が最初に作り出した楽器はピアノとはほど遠い紙腔琴であった。
 紙腔琴とよばれるものは現在では知る人がほとんどいないが、日本で最初に流行した大衆楽器であったという。
 当時、ヨーロッパではチャイコフスキーが歌劇「スペードの女王」、ドヴォルザークが「新世界」を、プッチーニは「蝶々夫人」を書いた時代であったが、わが国では音楽も楽器も大衆からは全く縁遠いものであったのである。
 この玩具のような楽器は、現在のオルゴールに相当するもので、ただハンドルを回しさえすれば音楽が聞えてくる、いわゆる自動演奏楽器(自動オルガン、自動ピアノあるいはオーケストリオンなど-蓄音器の出現以前にもてはやされたもの)の係のようなもので、ハンドルを回すと和紙で作ったロール紙の穴からふいごが空気を吸い込み、フリー・リードが鵯るという機構であった。現在でもわずかに残っているというが、リードの音階配列がパラパラで修理が至難なものであるという。
 (注)一琶田辺尚雄氏によれば、「紙腔琴は1893年に東京の又上戸田欽堂山人が創案したものである。欽堂氏は別号を花柳散人と称し、軟文学作家でもあり、また遊芸の道に通じ粋人であった。西洋のミュージカル・ボックスからヒントを得てこの楽器を考え出し、これを当時音楽理論家および音響学者として有名な上原六郎氏(東京音楽学校教授、同校主事)に指導を受け、西川オルガン製作所に託してこれを完成し、東京銀座の十字屋楽器店から発売したものである」という。
 松本新吉夫妻は。築地の工場で、その後の十年間、1900年に渡米するまでこの紙腔琴を皮切りにオルガンの製作で苦闘している。

 アメリカへ渡る 日本のピアノメーカーで最初に渡米したのは山葉寅楠氏である。彼は、1899年に文部省の嘱託としてアメリカの楽器業界の視察を兼ねて、単身ピアノの部品購入のために渡米し、ピアノの鉄骨フレームにヤマハの商標を鋳込ませたものを輸入することに成功し、ヤマハピアノの市場価格を一挙に高めたと伝えられている。
 松本新吉氏がアメリカに修業に出かけたのはその翌年の1900年であった。彼は、苦節十年、紙腔琴を作るかたわらピアノ、オルガンの製作。修理などに懸命になり、その当時としては途方もない渡臭費用を調達したのである。
 彼が在米中に書いた赤い皮表紙の日記帳が現在も保存されているが、その内容はオルガン、ピアノの製作法を学び取るための苦悩に満ちたものでシカゴやニューヨークにおける工場内の修業の努力が明細に書き残されている。
 なお、この渡米の期間に彼の信仰するキリスト教の信条が大きく彼に援助を与えたことが文中にしばしば現われている。その明細については省略させていただくが、この半年近くの経験が後の松本ピアノの発展につながったことは疑いもない事実であろう。
 松本新吉氏の訪米について、イギリスの文献に次のように記載されている。
「1900年に松本新吉は日本のピアノのパイオニアとしてまた最初の調律師としてもアメリカで絶大な歓迎を受けている。彼は日本で最初の調律師として仕事を始め、その後数台のオルガンとピアノを作ったが、これらに満足せず、アメリカの数多くの工場を歴訪し、ブラッドベリーピアノ工場で腕を磨いた。この工場のマネージヤーは、彼のことを規律正しく、熱心でしかも忍耐強い人物であると絶賛している。」
 ブラッドベリーはニューヨークで1837年から創業していたピアノメーカーで・当時73歳になるスミス社長が、宗教を通じての親近感から松本新吉氏を熱心に指導したという。
 約半年余りアメリカで研究生活を送って帰朝した新吉氏は、その年の暮に愛妻の急死という不遇に見舞われた。落胆した彼は、一時築地の工場を郷里の千葉に移したが、材料入手などに不便なため、1年後、再び築地に
戻っている。1905年には長男の広氏をアメリカに送っているが、その翌年、築地工場は火災のため全焼し、苦労の連続で築地時代を終っている。
 1907年に月島二号地に新工場を設置、和田剣之助氏(病院長)および大倉文治氏(実業家)と松本楽器合資会社を結成、さらに銀座四丁目の伊勢善自転車店後に松本ピアノ店を開いてピアノ、オルガンを販売した。この松本ピアノ店が、のちに現在の山野楽器に変ったのである。
 この松本楽器ピアノ店の時代に、新吉氏は上野の東京音楽学校(現在の芸大)の学生であった三浦環、山田耕筰などの援助をしたと伝えられている。
 その後、1910年に松本楽器合資会社を解散し、月島工場を単独経営に移し、さらに京橋の柳町に営業所を設けたが、不幸にして前述の通り、1914年に月島工場も全焼している。
 松本新吉氏は温厚な性質で、ヒゲをたくわえた見るからに立派な紳士であった。なお、敬けんなクリスチャンで、その従業員とともに、毎朝食事前に讃美歌をうたい、聖書を読み、土曜日には銀座教会から牧師を招いて説教を聞いたという。

松本工場1.png


[画像]松本ピアノ・オルガンの月島工場。最初の工場は1906年に全焼し、その跡に作られた第二番目の工場で、左下に大八車があるが、当時としてはモダンな形式であったもの。これも1914年に全焼している。

松本工場2.png
[画像]月島2号地の松本ピアノ・オルガンエ場。作っては焼け、再建してもさらに焼けた第三番目の工場。その製品は、全くの手工業で製造されたもので、快心のできのものもあれば失敗作もあった。この工場も1916年の台風によって大津波に呑まれ、1924年の関東大震災によって全焼している。

松本新吉.png                    
                      [画像]松本新吉氏 72歳のころ。


 その当時、つまり、今から70年も前の松本のピアノ、オルガンは次のようなものであった。
 ピアノ アクションはイギリスから輸入されていた(エチ松本ピアノの名称になった後の製品には、ほとんどドイツ製のアクションがつけられている)。合板はなく、すべて一枚板で加工され、音量こそなかったが。音色はやわらかく、魅力的な音を持っていた。
 オルガン 当時のオルガンは現在のように大量生産方式のものではなく手工品的なものであったため、性能は極めて優れたものであった。もちろん足踏式のものであるが、種類としては39鍵、49鍵、61鍵の楽器があり、ストップの種類としては、現在はほとんど見られない4個、7個、9個、11個、13個、16個などか作られていた。リードオルガンであるから、パイプオルガンのような莖麗な音色は得られなかったが。さきに西川ピアノの際に述べたような多種類の音が組み合わされていたのである。箱型のボックスヒューマナー(トレモロの装置)もつけられており音量はやや不足で。ペダルが重かったが、美しい多彩な音色であったという。当時の値段は安価なもので16円、4個ストップのもので20円であったという。
 その頃、松本ピアノでは小型ピアノ(61鍵、71鍵)を製造開始し、
間もなく普通のアップライト、グランドを製作、1919年にはアクションとハンマーの生産を開始している。なお、1921年には自動ピアノを完成して、当時の東京博覧会に出品しているが、これはイギリスのスデックという楽器を分解してまねたもので、足踏み式のロールを使うニューマチック方式のものであったが、一応は鳴ったそうである。

 株式会社設立 1923年に松本ピアノ製造株式会社が設立された。しかし、半年も経たぬうちに関東大震災が起こり、月島工場も柳町営業所もすべて焼失してしまったため、松本氏は会社を解散して個人経営に切り替ている。合資会社は3年、株式会社も半年足らずで消滅しているのであるから。松本ピアノはよほど会社運がなかったのだろう。
 関東大震災後の1924年に再開されたピアノの生産は順調に伸び、月産50台にも達し品質も向上して、第一流の楽器として評価されるように
なったが、その数年後、新吉氏は長男の広氏と別れて故郷の千葉に移っている。こうして、松本ピアノには”エス松本”と”エチ松本”の二種類のブランドが誕生したのである。
 松本広氏が作った。”エチ松本”のブランドのカタログによると、年代は正確ではないが、グランドコンサート用も含めて3種、アップライトが9種類となっており、その中にはローゼンタールおよびフェリックスーシュラーというブランドのものも含まれている。
ピアノカタログ1.png
ピアノカタログ2.png
                    [画像]1960年頃の松本ピアノのカタログ

 
千葉におけるピアノ製造は六男の松本匪二氏が継いだが、彼は不幸にして事故でなくなり、現在その奥さんの松本和子さんが長男の信一氏と共に有限会社松本ピアノエ場として仕事を引き継いでいる。このマツモト・アンド・サンズというピアノは、月産わずか数台であるが、大変美しい音であると聞く。一家そろって七十年余りもピアノを作り続けているのは松本ピアノだけであろう。
 
 現在も活躍する当時の技術者 松本ピアノの月島工場は、戦時中の爆撃で全焼して、その55年の歴史を閉じたが、この工場で技術を磨いた人びとは、現在各地で活躍し続けている。シュペスター(浜松)、イースタン(宇都宮)、キャッスル(土浦)などのブランドのピアノは、いずれもこの系統のものであるし、松本ピアノ出身のピアノ技術者は、現在のピアノ調律師協会の会員の中にも極めて数が多く、これらの人々で組織された松友会という親睦会には会員が百人以上もいるという。
 松本ピアノ出身で、健在の主な方々は次の通りである。
 宇都宮信て上岸慚、市川祐弘、寺中て本多匡雄、宇佐美隆、青木栄次郎、森泉良平、田中信男、古賀良三、松川静雄、市村昂、岩本重晴などの各氏。




改訂 楽器の事典ピアノ 平成2年1月30日発行 無断転載禁止


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