楽器の事典ピアノ 第2章 黄金期を迎えた19世紀・20世紀 7 コマーシャルピアノ

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[画像]ジョセフ・P・ヘール

コマーシャルピアノ

 コマーシャルピアノは、芸術性は二の次として、いかにして製造原価を切り下げ、どのようにして多量に販売し、その結果さらにコストを低下して、ひたすら利潤追求を第一目的とするというものである。
 この傾向は19世紀の末期に現れ始めたもので、ピアノ工業の世界に限られたものではなく、ヴァイオリンの製作においても同様であった。
 もっとも、ヴァイオリン製作の場合の工業化は18世紀のドイツのミッテンバルトやフランスのミルクールにおいてすでに行われており、これがヴァイオリン製作そのものの崩壊をもたらしたともいわれている。
 コマーシャルピアノの元祖はアメリカのジョセフ・P・ヘールであった。
 彼は1870年頃マサチューセッツ州のウォーチェスターからニューヨークにやって来た"独立自尊"を絵に描いたような人物であった。
 ヘールは、まず、ツボやカメなどの焼物のガラクタを販売して、爪に灯をともすような生活をしながら、3万5000ドルの金を蓄え、グロベスティーンピアノ工場の株を買ってたちまちこの工場を乗っ取った。現代的にいえばテイクオーバーしたのである。
 ピアノは現在でこそ商品に違いないが、その当時はマスターたちがプライドを持って作り上げる芸術品であった。
 しかしヘールは、アメリカ人特有の現実的な直感から、ピアノを、商売上で必ず儲かるものに違いないと見てとったのである。
 音楽、音響学の理論、ピアノの構造などに関する知識は全く持ち合わせなく、しかも科学的実験は一切抜きにして、彼はピアノの製作コストを下げることにのみ熱中した。まずケース、響板、アクションその他の材料から塗料に至るまでのそれぞれの原価を分析して、いかにしてこれを切り下げるかに腐心した。労賃を節約したことはいうまでもない。彼はピアノを大量生産し、流通市場の商品とすると言う、当時としては前代未聞の偉業を成し遂げたのである。
 彼の破天荒な思いつきは、芸術を無視するものとして当然音楽家たちから白眼視されたが、そのパイオニア的な果敢な仕事により、ピアノ製造業を一挙に繁栄に導き、現在でも一面ではコマーシャルピアノの父という、あまり名誉でない名を残しながら他面では絶大の感謝を受けている。
 ヘールはピアノ製作に関するあらゆる伝統を無視して、ピアノを寝台を組み立てるような方式で次々と作り上げた。さらに、作業工程の分業化を徹底して行った。そのため、労務費は一般のピアノメーカーの半分に切り下げることができた。
 材料費の節約にはもっぱら現ナマにモノをいわせ、ケース、キー、アクションその他をC.O.Dで最低価格で購入した。このようにして木材その他の在庫量を最小限に押さえ、一週間に百台のピアノを生産する状態になった時でも、その原材料の在庫量は一週間分以内という驚くべき態勢を作り上げた。
 ヘールは、このようにして作り出したピアノを他の優れたメーカーたちの製造原価以下の値段で売り、しかも莫大な利益を獲得した。この革命的な商法は、当然、従来の正統的なピアノ製作者との、正面切っての対立をもたらしたが、彼は、一歩も譲らず「値段が安いのがなぜ悪い、このピアノは支配階級に痛めつけられた一般労働者のためのものだ」、「安ピアノを10人が買えば、その中の一人くらいは、10年も弾いていれば、うまくなり、高いピアノを買うはずだ」といい放って絶対に自説を曲げなかった。
 彼の予言は見事に適中したのである。コマーシャルピアノのメーカーは激増し、その反面、ヘールが予想した通り高級なピアノの生産量も年を追って増加し始めた。ピアノは演奏家や一部の上流階級の人びとの手から西部の田舎の庶民に至るまで広く愛好され始め、ぜいたく品から愛玩物へと、その商品としての性格を変えて行った。

 その頃、ボールドウィン、メーソン・アンド・ハムリン、エベレット、およびコノーバーなどの優れたピアノがコマーシャルピアノを専門に取り扱う店で売られ始め、ピアノ販売数は倍増どころか十倍にも増えたのである。
 ピアノの販売は、特殊な商品でアフターケアーのための技術が必要なため、代理店を通じて行われるのが常識であった。ところが、ヘールは勇敢にもこの代理店制度を全く無視し、代金さえ支払ってもらえればどこの誰にでも売るという、荒っぽい商売を始めた。そのため販売地域および末端価格に関する衝突や争いが各地で起こり始めた。これらを避けるために、彼はステンシルシステムを考え出したのである。
 ステンシルシステムとはバイヤーの希望するブランドをピアノにつける方法で、これらの楽器をステンシルピアノと呼ぶ。
 ヘールは多くのバイヤー、特に西部の大きい取引先に対してそれぞれが希望するブランドをつけ始めた。前ぶたの内側に勝手な名称をつけるのは言うまでもなく、鉄骨のプレートにブランドをネジ止めしたり、最終的にはアイアンフレームの鋳造の際にブランドをつけ、あたかもメーカー製品であるように見せかけた。
 このステンシルピアノの出現で、同じ製品でありながら名称の違うピアノが続出し素性のわからぬ怪しげな楽器が次々と出現してブランドだけではその性能を判断することが不可能になってしまった。もっとも、ヴァイオリンのストラディバリウスやガリネリウスのコピーやニセ物と違って、スタインウェイやベーゼンドルファーのイミテーションが作られたわけではないので罪は軽いが、現在全世界に残っているピアノのブランドが、少なく見積もっても1万種類以上もあるという困った事態を生み出したその祖は彼である。
 ピアノの大量生産が可能になるにしたがって、そのマスプロ化された商品をいかにして売りさばくかが問題化され始めた。そこで注目されたのが百貨店におけるピアノの販売で、大都市のデパートのすべてがピアノをその取り扱い商品に加えたのである。その当時の百貨店ではワンプライス・システムが採用され大きい成果を上げたという。
 なお、メールオーダーのピアノ販売も20世紀の初頭において開始されている。
 ステンシルピアノの出現で大衆化され始めたこの楽器の生産数は、19世紀の後半から20世紀の初頭にかけて驚くほど急増した。
 アメリカの例をとって見ても、 1869年に年間2万5000台であった生産数が、1910年には35万台に増加している。これは著名なメーカーが行った教育的および芸術的なプロパガンダもさることながら、雑多なステンシルピアノの販売者たちの精力的で強引な販売方法に負うことが大であったと記録されている。
 ピアノ工業が近代化されるにしたがって、資本主義の原則通り、資本の集中による巨大資本がその世界を支配するに至った。アメリカにおいては膨大な資本と販売力を持つアメリカンピアノ社とエオリアン社が有名メーカーを統合支配するようになり、やがて後者が前者までもコンソリデート(統合)してしまった。大量生産方式による市場の独占が製造原価を低下させ、供給をコントロールし、価格を維持し、その結果、莫大な利潤を生み出すに至ったのである。
 まるで経済史の講義のようで、ピアノ音楽の芸術性とは全くかけ離れたものとなってしまったが、それには理由がある。
 ピアノは、すべてのアカデミックな諸楽器と同様に、19世紀の末までに、ほとんで改良し尽くされ、その後には注目すべきイノベーション(革新)がほとんどなかったからである。なお、このアメリカにおける19世紀後半から20世紀の初頭にかけてのピアノの歴史は、不思議なことに、戦後の日本におけるピアノ発達史と酷似している。
 20世紀においては、このほとんど完成された楽器の音色および機能などについて科学的に詳しく分析した文献は数多く残されているが、ピアノの歴史の前半に記録されているようなロマンに富んだ逸話は、残念ながら全くない。





改訂 楽器の事典ピアノ 平成2年1月30日発行 無断転載禁止


▶︎▶︎▶︎第2章 黄金期を迎えた19世紀・20世紀 8 二十世紀のピアノの改革

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