苦悩をとおして歓喜へ

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昭和39年(1964年)1月1日発行「音楽生活」創刊号より転載

 

音楽の名著から  ロマン・ロラン著『ベートーヴェンの生涯』

苦悩をとおして歓喜へ        村田武雄 

   能 ふ 限 り 善 を 行 ひ

   何 に も 優 り て 不 覊 を 重 ん じ

   た と へ 王 座 の 側 に て も あ れ

   絶 え て 真 理 を 裏 切 ら ざ れ

                ベートーヴェン

                  (1792年記念帖)

 ロマン・ロラン著片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」

(ロマン・ロラン全集みすず書房)

 
フランスの十九世紀から二十世紀前半にかけての作家、評論家のロマン・ロランは早くから民衆のための芸術を唱えて、機械文明から人間を救おうとして真理主義的な理想主義をかかげ、かれはその理想像をベートーヴェンに見出したのであった。

 1903年、「半月手帖」誌に発表された「ベートーヴェンの生涯」Vie de Beethoven は人類の苦悩を背負って真実のために強く正しく生きぬいたベートーヴェンの人生を語ることによって、人びとの心に理想の火を点じようとした論文である。私はこれによって音楽への道を開かれ、芸術に少しでも深く入れたら人間として、最上の幸福を得られるのではないかと夢みるようになった。それだけに世の人びとにとくに青年に読んでもらいたい書の一つである。

 「僕の体力も知力も、今程強まっていることはかつてない。……僕の若さは今初まりかけたばかりなのだ。1月1日が僕を目標へ近づける、ー自分では定義できずに予感しているその目標へ。おお、僕がこの病気から治ることさえできたら、僕は全世界を抱きしめるだろうに!……少しも仕事の手は休めない。眠る間の休憩以外には休憩というものを知らずに暮している。以前よりは多くの時間を睡眠に与えねばならないことさえ今の僕には不幸の種になる。運命の喉元をしめつけてやる。断じて全部的に参ってはやらない。おお、人生を千倍にも生きられたらどんなにいいか」

(38ページ)

 音楽家にとって最大の武器である耳が聞こえなくなったベートーヴェンは「ハイリゲンシュタットの遺書」において絶対絶命の呻きを告げた。しかしベートーヴェンはその試練の重みに耐えながら、なお25五年頑強に生きながらえて、「運命交響曲」はじめ数々の名作を残したのである。

 それだけにベートーヴェンは自己の内部に閉じこもって、自然を唯一の友とも安息所ともした。

 「ベートーヴェンほどに花や雲や自然の万物を完全に愛する人間を見たことがなかった。自然はベートーヴェンが生きるための不可欠の条件のようだった」「私ほど田園を愛するものはあるまい」とベートーヴェンは書いている。「私は一人の人間を愛する以上に、一本の樹木を愛する」かれは毎日のようにヴィーンの郊外を散策した。暁から夜まで帽子もかぶらず、月光の中、また雨の中を、独りで田舎を歩き回っていた。「全能なる神よ!——森の中で私は幸福である——そこでは各々の樹がおん身の言葉を語る。——神よ、何たるこの荘厳さ!——この森の中、丘の上の——この静寂よ——おん身にかしずくためのこの静寂よ!」(59ページー60ページ)

 ベートーヴェンがどうして「田園交響曲」を書かずにいられなかったか。また、ベートーヴェンの激烈な情熱の反面に湖のような静寂を感じさせる音楽がどうして生まれて来たのか、それをとく鍵がこの言葉のなかにある。

 「絶えず憂苦に心を嚙まれていた、この不幸な人間はまたつねに『歓喜』の霊妙さを頌め歌いたいと欣求した。(67ページ)。ベートーヴェンが歓喜をほめようと企てたのは、この悲しみの淵の底からである」(65ページ)

 ベートーヴェンは真の歓喜は人間がもろもろの苦悩に耐えて生きぬいた暁に得られるものと信じて疑わなかった。苦悩を通して歓喜へ——それはベートーヴェンの人生観であり、その一つの結晶が「交響曲第九番」である。

 「音楽は、一切の智慧、一切の哲学よりもさらに高い啓示である。私の音楽の意味をつかみ得た人は、他の人々が曳きずっているあらゆる悲惨から脱却するに相違ない」

 「音楽は人々の精神から炎を打ち出さなければならない」

 「静寂と自由とは最大の財宝である」

 「忍耐——(神への)忍従—―忍従!かくて極度の不幸の中でさえなお得るところがあり、そしてわれわれはわれわれ自身を神によってわれわれの欠点を赦されるに値する者となすことができる」(ベートーヴェンの思想断片)

 ロマン・ロランはベートーヴェンの芸術を「善への美」と考えて、この著のなかでかれの人間性を追求したのである。


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