作曲家プロフィール
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【イタリア】
モンテヴェルディ(Claudio Monteverdi) 一五六七~一六四三
マントヴァとヴァネツィアを中心に、世俗声楽曲、教会音楽、オペラのすべてに今日でも盛んに演奏される重要な作品を残した。ルネサンス音楽からバロック音楽への転換をリードした「モダン音楽の創始者」ともいわれる。[その他のオペラ作品]「タンクレディとクロリンダの争い」(一六二四)
ペルゴレージ(Giovanni Battista Pergolesi) 一七一〇~一七三六
「奥様女中」はオペラ・ブッファの先駆けとなると同時に、一七五二年パリで再演されると大きな反響を呼び、伝統的フランス・オペラ擁護派とオペラ・ブッファ支持派との間に「ブフォン論争」を引き起こした。晩年は修道院で過ごし二六歳の若さで没した。
[その他のオペラ作品]「恋する兄」(一七三二)
チマローザ(Domenico Cimarosa) 一七四九~一八〇一
ナポリの王室礼拝堂次席オルガニスト、サンクトペテルブルクの宮廷楽長などを経て一七九一年からウィーンの宮廷楽長を務める。九二年上演された「秘密の結婚」は、一八世紀のオペラ・ブッファの中でも最も人気のある作品のひとつとなった。多作で知られ、オペラのほかにモテット、ミサ曲、鍵盤楽器ソナタを残した。
[その他のオペラ作品]「宮廷楽士長」(一七九二)
ケルビーニ(Maria Luigi Cherubini) 一七六〇~一八四二
イタリア出身だが一七八六年以降パリを本拠地とし、八八年発表のオペラ「デモフォン」は、フランス・グランド・オペラの先駆となった。一八二二年よりパリ音楽院の院長を務めた。晩年は教会音楽を中心に作曲した。[その他のオペラ作品]「ロドイスカ」(一七九〇)「水運び(二日間)」(一八〇〇)
スポンティーニ(Gasparo Spontini) 一七七四~一八五一
ナポリの音楽院で作曲を学び、在学中に発表したオペラ「女たちの片意地」により、ニコロ・ピッチンニの弟子となる。一八〇三年にパリに渡り、ナポレオン皇妃ジョゼフィーヌの庇護を受ける。この時期に作曲した「ラ・ヴェスターレ」は革命音楽の影響を強く受けており、ナポレオンから最優秀オペラとして表彰されている。歴史的な題材を得意としたその作風は、当時の社会状況の需要とも合致するものであった。〔その他のオペラ作品〕「ミルトン」(一八〇四)「フェルナンド・コルテス」(一八〇九)
ロッシーニ(Gioacchino Rossini) 一七九二~一八六八
次々と名作を発表し、若くして成功を収めるが、「ウィリアム・テル」を最後に三七歳の若さで筆を折り、以後は隠退生活に入った。ロッシーニのオペラ創作は一八一〇年から二九年までの二〇年間に過ぎなかったが、中期以降のセリアとグランド・オペラにおける革新的作劇と大胆な和声法から前期ロマン派と位置づけられる。[その他のオペラ作品]「婚約手形」(一八一〇)「幸福な錯覚」「絹のはしご」「試金石」(以上一八一二)「ブルスキーノ氏」(一八一三)「イタリアのトルコ人」(一八一四)「エジプトのモーゼ」(一八一八)「湖上の美人」(一八一九)「セミラーミデ」(一八二三)「コリントの包囲」(一八二六)「オリー伯爵」(一八二八)
ドニゼッティ(Gaetano Donizetti) 一七九七~一八四八
ロッシーニに続く一九世紀前半に活躍。流麗な旋律で知られるベル・カント・オペラの代表的な作曲家。一八三〇年の「アンナ・ボレーナ」で悲劇作曲家として注目される。七〇作にのぼるオペラを残した。
[その他のオペラ作品]「劇場的好都合不都合」(一八三一)「サン・ドミンゴ島の狂人」(一八三三)「ジェンマ・ディ・ヴェルジ」(一八三四)「ルデンツ家のマリア」(一八三八)「ポリウト」(一八三八)「カテリナ・コルナーロ」(一八四四)
ベルリーニ(Vincenzo Bellini) 一八〇一~一八三五
音楽家の家系に生まれ、六歳で最初の作曲を行う。ロッシーニを頂点とするベル・カントの装飾歌唱を劇的歌唱へと転換させ、感情表現の巧みさと深みのある人物造型により前期ロマン派オペラの様式を確立した。[その他のオペラ作品]「ビアンカとジェルナンド」(一八二六)「異国の女」(一八二九)
ヴェルディ(Giuseppe Fortunio Verdi) 一八一三~一九〇一
貧しい家に生まれ、正規の音楽教育はほとんど受けず、プライベート・レッスンと独学で作曲を学んだ。出世作「ナブッコ」以降次々と成功を収め、国民的な音楽家となった。生年が同じであることもあり、その作風はしばしばワーグナーと比較される。
[その他のオペラ作品]「アルツィーラ」(一八四五)「群盗」(一八四七)「スティッフェリオ」(一八五〇)「アロルド」(一八五七)
ポンキエルリ(Amilcare Ponchielli) 一八三四~一八八六
ミラノ音楽院で学び、一八五六年「婚約者」でオペラ作曲家として世に出る。ヴェルディを除けば、一九世紀中期(プッチーニ以前)の最も重要なオペラ作曲家の一人とされる。ミラノ音楽院作曲家教授となり、プッチーニをオペラ創作へ導いた。
ボーイト(Arrigo Boïto) 一八四二~一九一八
オペラ作曲家としての他に、台本作家、作曲家、詩人、評論家として多方面で活躍。「メフィストーフェレ」に続く二作目のオペラ「ネローネ」は死後トスカニーニによって指揮された。台本作家としてはヴェルディの「オテロ」「ファルスタッフ」、ポンキエルリの「ジョコンダ」などで知られる。
カタラーニ(Alfredo Catalani) 一八五四~一八九三
音楽家の家系に生まれ、ルッカの音楽学校を卒業した後にパリ音楽院、次いでミラノ音楽院で学ぶ。ミラノにおいて伝統への反逆と新たな芸術様式の創造を掲げた前衛的なメンバーと交流を持ち、特にボーイトやパッジーニとの長きに渡る交流は彼の生涯と作品に大きな影響を与えた。管弦楽による情景描写を好み、器楽曲をオペラに取り入れたカタラーニの作品はしばしばドイツ的であると批判され、プッチーニやヴェルディの影に隠れて過小評価されてきたといえる。しかしながら彼の代表作「ワリー」(一八九二)は成功を収め、現在では重要な作曲家であるとみなされている。
レオンカヴァルロ(Ruggiero Leoncavallo) 一八五七~一九一九
作曲家、台本作家。ナポリ音楽院で作曲を学び、ボローニャ大学で文学学士号を取得。ワーグナーの励ましにより「ルネサンス三部作」を構想するが、その完成を見ないうちにマスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」に触発されて自身の台本による「道化師」を発表、大成功を収めた。[その他のオペラ作品]「ボエーム」(一八九七)
プッチーニ(Giacomo Puccini) 一八五八~一九二四
父祖代々音楽家の家に生まれる。二五歳のときソンツォーニョ社主催のコンクールに応募して注目される。二人の台本作家ジャコーザとイッリカとの連携により数々の名作を世に送り出した。特にメロディの美しさと劇的展開の巧みさを特徴とし、同時代人からも幅広く支持された。[その他のオペラ作品]「エドガー」(一八八九)
マスカーニ(Pietro Mascagni) 一八六三~一九四五
ミラノ音楽院で学びポンキエルリに師事する。その後オペレッタ一座の指揮者となって各地を巡業する。一八八八年ソンツォーニョ社のコンクールで一等になった「カヴァレリア・ルスティカーナ」の大成功により、ヴェリズモ・オペラの創始者として世界的な名声を得た。
チレア(Francesco Cilea) 一八六六~一九五〇
ナポリ音楽院で作曲とピアノを学び、在学中からオペラを作曲。一八九四年より教鞭をとり、一九一三~一六年パレルモ音楽院院長、一九一六~三五年ナポリ音楽院院長を務めた。ヴェリスモのなかにあっても暴力性を帯びない繊細な表現を特徴とする。
[その他のオペラ作品]「ティルダ」(一八九二)
ジョルダーノ(Umberto Giordano) 一八六七~一九四八
ナポリ音楽院で作曲を学ぶ。在学中作曲したオペラでソンツォーニョ社に注目され、その要請で書いたオペラ「悪の世界」が好評を博し、さらに「アンドレア・シェニエ」の成功によってオペラ作曲家としての地位を確立した。ヴェリスモの系統を引くイタリア・ロマン派のオペラ作曲家として親しまれている。
[その他のオペラ作品]「シベリア」(一九〇三)
モンテメッツィ(Italo Montemezzi ) 一八七五~一九五二
ミラノ音楽院にて作曲を学ぶ。彼の作品はイタリアよりもむしろアメリカで人気があり、一九三九年から四九年まではカリフォルニアに定住して活動した。最も成功を収めた作品は「三王の恋」(一九一三年)であるが、初期の作品である「ジョヴァンニ・ガッルレーゼ」(一九〇五)はイタリア・オペラの様式とワーグナー的な和声を取り入れた独自の様式によって評価されている。
ヴォルフ=フェラーリ(Ermanno Wolf-Ferrari) 一八七六~一九四八
ドイツ人の父とイタリア人の母の間に生まれる。当初は美術を専門に学んでいたが、一八九二年にミュンヘン音楽アカデミーに入学し、本格的に音楽を始める。ドイツとイタリアの各地で活躍した彼の作品はドイツでより評価される傾向があった。とりわけ喜劇の分野で才能を発揮し、ゴルドーニの喜劇を原案にした「好奇心の強い女たち」(一九〇三)、「四人の田舎者」(一九〇六)は、一八世紀の音楽様式とモダンな音楽様式が混合された特徴がよく現れている。〔その他のオペラ作品〕「シンデレラ」(一九〇〇)
ザンドナイ(Riccardo Zandonai) 一八八三~一九四四
イタリアの作曲家、指揮者。ペーザロの音楽院にてマスカーニに師事する。プッチーニの後継者となる作曲家であると目されてリコルディ社と契約し、「炉辺のこおろぎ」(一九〇八)にて認められる。色彩豊かな管弦楽法に定評があり、シュトラウスやドビュッシーから影響を受けた「コンキータ」(一九一一)などは、当時のイタリアで高く評価された。最も成功したオペラは「フランチェスカ・ダ・リミニ」(一九一四)であり、現在でも人気が高い。
〔その他のオペラ作品〕「エケブの騎士」(一九二五)「ジュリアーノ」(一九二八)
【ドイツ】
グルック(Christoph Willibald Gluck) 一七一四~一七八七
プラハで独学で音楽を修めたのち、イタリアを中心にヨーロッパ各国で活躍。ロンドンではヘンデルと親交を結ぶ。一七五二年以降はウィーンで活動し、オーストリア皇女時代のマリー・アントワネットの音楽教師も務めた。オペラを中心に活躍し、オペラの改革に貢献した。
[その他のオペラ作品]「アウリスのイフィゲニア」(一七七四)「タウリスのイフィゲニア」(一七七九)
ハイドン(Franz Joseph Haydn) 一七三二~一八〇九
幼少時より音楽に親しみ、シュテファン大聖堂の少年聖歌隊員として活動する。一七五三年頃よりポルポラに師事して作曲を学び始め、音楽家として本格的に活動を始める。六一年にエステルハージ侯の副楽長に任命され、恵まれた音楽環境の中で数多くの作品を書いた。ハイドンのオペラ作品のほとんどは、侯爵の離宮に併設されたエステルハーザ劇場のために書かれたものであり、交響曲、室内楽曲は特に成功を収めた。彼の作品は晩年まで高く評価され、長きに渡り人々に愛されている。
〔その他のオペラ作品〕「騎士オルランド」(一七八二)「アルミーダ」(一七八三)
モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart) 一七五六~一七九一
幼時より天才的才能を発揮し、一〇代後半にはすでに器楽及び声楽のジャンルのほとんどあらゆるジャンルの作曲技法に習熟していた。そのなかでオペラはオペラ・セリア、オペラ・ブッファ、ジングシュピールそれぞれで優れた作品を残した。
[その他のオペラ作品]「第一戒律の責務」(一七六六~六七)「アポロとヒアチントゥス」(一七六七)「みてくれの馬鹿娘」(一七六九)「ポントの王ミトリダーテ」(一七七〇)「アルバのアスカーニョ」(一七七一)「シピオーネの夢」「ルーチョ・シッラ」(以上一七七二)「ツァイーデ」(未完)(一七七九~八〇)「カイロの鵞鳥」(未完)(一七八三)「騙された花婿」(未完)(一七八三)
ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven) 一七七〇~一八二八
祖父はボンの宮廷楽団の楽長、父はテノール歌手という音楽家の家に生まれる。二二歳のときウィーンへ移り、以後その地で活躍する。あらゆるジャンルに通じ、作品数も非常に多い。オペラは「フィデリオ」一曲のみだが、彼独自の個性がよく表れたこの作品によってドイツ国民オペラの新しい扉を開いた。
ウェーバー(Carl Maria von Weber) 一七八六~一八二六
幼くして音楽の教育を受け、一三歳で最初のオペラを作曲する。各地を転々とし、「オベロン」初演のため訪れたイギリスで客死した。「魔弾の射手」によりロマン的ドイツ・オペラを確立した。なお、モーツァルトの妻コンスタンツェは彼のいとこにあたる。
[その他のオペラ作品]「アブ・ハッサン」(一八一〇~一一)「オイリアンテ」(一八二二~二三)「オベロン」(一八二四~二六)
ニコライ(Otto Nicolai) 一八一〇~一八四九
ベルリン、ローマ、ウィーンなどで活動したのち一八三〇年代にオペラ作曲家として名声を確立。四二年ウィーン宮廷歌劇場の指揮者に就任、オペラのほかに管弦楽演奏会を開始して、今日にまで至るウィーン・フィルの礎を築いた。
[その他のオペラ作品]「エンリーコ二世」(一八三九)「追放された男」(一八四四)
フロトウ(Friedrich von Flotow) 一八一二~一八八三
パリ音楽院でピアノと作曲を学ぶ。グノーやオッフェンバックらと親交を結び、フランスのオペラ・コミックに刺激を受けた。
ワーグナー(Richard Wagner) 一八一三~一八八三
一五歳のときベートーヴェンの作品を聞いて音楽を志すが、なかなか成功せず困窮生活を送る。それに加え政治活動により警察に追われ各国を転々としていたところを、彼の熱狂的ファンであるバイエルン王ルートヴィヒ二世に救われ、以後その庇護のもとにオペラを発表し続けた。独自の芸術論に則った作品で知られる。なお、彼の妻コージマはフランツ・リストの娘。
[その他のオペラ作品]「妖精」(一八三三~三四)「恋愛禁制」(一八三三~三六)「リエンツィ」(一八四二)
スッペ(Franz von Suppé) 一八一九~一八九五
オーストリアの作曲家、指揮者。パドヴァで法律を学んでいた際にイタリア・オペラの魅力に触れ、音楽家となることを決意する。ウィーンやバーデンなどの劇場で指揮者を務め、序曲やオペラを作曲した。特に「詩人と農夫」(一八四六)、「軽騎兵」(一八六六)などの序曲は現在でも人気が高く、オペレッタ「美しいガラテア」(一八六五)、「ボッカチオ」(一八七九)などは現在でもウィーンのオペレッタの主要なレパートリーの一つである。
ヨハン・シュトラウス二世(Johann Strauss) 一八二五~一八九九
「ワルツの父」ヨハン・シュトラウスの長男で、同名の父と区別して「ワルツの王」と呼ばれる。「美しく青きドナウ」「春の声」などの作品が有名。一八七〇年代以降は舞台作品に力を注ぎ、ウインナ・オペレッタの黄金期を築いた。[その他のオペラ作品]「シンプリツィウス」(一八八七)「くるまば草」(一八九五)
フンパーディンク(Engelbert Humperdinck) 一八五四~一九二一
ケルン、ミュンヘンなどで音楽を学んだのち、ナポリ滞在中にワーグナーに出会い、大きな影響を受ける。「ヘンゼルとグレーテル」の大成功はドイツで童話オペラが流行するきっかけになった。
[その他のオペラ作品]「王様の子供たち」(一九一〇)
リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss) 一八六四~一九四九
早くから音楽的才能を示すが、音楽学校には通わずミュンヘン大学で哲学、美学、美術史を学ぶ。特に詩人ホフマンスタールとの協同制作により、強烈な個性的をもつ作品を次々と生みだした。ナチス政権時代は政治に翻弄されるが、一九四〇年代に入ってから再び優れた作品を世に送り出した。また、指揮者としても高い評価を受けていた。[その他のオペラ作品]「火の欠乏」(一九〇一)「インテルメッツォ」(一九二四)「無口な女」(一九三五)「平和の日」(一九三八)「ダナエの愛」(一九五二)
レハール(Franz Lehár) 一八七〇~一九四八
ハンガリー系オーストリア人。プラハ音楽院でドヴォルザーク、シェーンベルクに学んだのち軍楽隊に入り、退団後プラーター及びアン・デア・ウィーン劇場に指揮者として迎えられる。二〇世紀のオペレッタに時代感覚をとりいれ、新しい娯楽音楽の開拓に貢献した。[その他のオペラ作品]「ルクセンブルク伯爵」(一九〇九)「パガニーニ」(一九二五)「ロシアの皇太子」(一九二七)「ジュディッタ」(一九三四)
シェーンベルク(Arnold Schönberg) 一八七四~一九五一
ヴェーベルン、ベルクとともに新ウィーン楽派を形成、調性を放棄した無調音楽、十二音技法による十二音音楽の創始者として、二〇世紀の西洋音楽の発展において重要な役割を果たした。大作「グレの歌」が有名。
カールマン(Imre Kálmán) 一八八二~一九五三
ブダペストで作曲を学んだのち、オペレッタ「陽気な軽騎兵」の成功後ウィーンを中心に活躍。ウィーン・オペレッタの様式とハンガリー音楽の要素を巧みに結びつけた作品で知られる。
[その他の作品]「伯爵夫人マリッツァ」(一九二四)「サーカスの女王」(一九二六)
ベルク(Alban Berg) 一八八五~一九三五
独学で作曲を始めたのちシェーンベルクに師事する。第一次大戦後はシェーンベルクの私的演奏協会の中心メンバーとして活動し、十二音技法の完成に大きな役割を果たした。
オルフ(Carl Orff) 一八九五~一九八二
ドイツの作曲家。一〇代のころに歌曲「エリラント」を出版し、ドイツ各地の劇場およびバッハ協会で指揮者を務める。一九三七年に代表作となる「カルミナ・ブラーナ」を初演。数々の舞台作品のほか、モンテヴェルディのオペラの改訂にも携わった。また彼の音楽教育学者としての業績は広く知られている。なかでも「オルフ学校用作品」のために開発されたオルフ楽器は高度な音楽知識がなくても即興演奏ができるように工夫されており、現在も音楽教育の現場で用いられている。
〔その他のオペラ作品〕「犠牲」(一九一三)「月」(一九三九)
コルンゴルト(Erich Wolfgang Korngold) 一八九七~一九五七
オーストリア出身。幼少時より才能を現し、十一歳の時に作曲したバレエ「雪人形」は師であるツェムリンスキーの編曲で宮廷劇場にて初演された。代表作「死の都」(一九二〇)はハンブルクとケルンで同時に初演され、心理描写と管弦楽法の巧みさによって高く評価された。一九三八年にアメリカに亡命、以後は映画音楽の作曲家として活動する。
〔その他のオペラ作品〕「ポリュクラテスの指輪」「ヴィオランタ」(以上一九一六)
ヴァイル(Kurt Weill) 一九〇〇~一九五〇
ベルリン音楽大学で短期間フンパーディンクに作曲を学ぶ。作家ブレヒトと組んだ作品で注目を浴びる。ユダヤ系でナチス政権誕生後はパリへ亡命。一九三五年からはアメリカに移住し、四三年にはアメリカ国籍を取得。以後は主にブロードウェイのミュージカル作曲家として活躍し、ハリウッドの映画音楽も手がける。
ツィンマーマン(Bernd Alois Zimmermann) 一九一八~一九七〇
ケルン及びダルムシュタット夏期講習にて作曲を学ぶ。若い頃はナチスの体制や兵役によって学業を制限されたが、ケルン大学やボン大学で音楽学、心理学、哲学などを勉強し、そこで得た人文学的な知識を積極的に自身の作品に生かした。ラジオや映画、劇場用の音楽の作曲や編曲でも活躍しており、これらの仕事は格好の音楽的実験の場となった。「軍人たち」(一九六五)は彼の唯一のオペラであり、複数の要素や場面が同時進行する多元主義の手法が取り入れられている。
【フランス】
マイアベーア(Giacomo Meyerbeer) 一七九一~一八六四
ドイツの作曲家。早くからオペラ作曲家を志し、イタリアでの作曲活動を経て以前からあこがれていたパリに居を定める。台本作家スクリーヴと組んで「ユグノー教徒」(一八三六)「預言者」(一八四九)「アフリカの女」(一八六五)を次々と発表し、国際的な名声を不動のものとした。特にドラマティックなアリア、合唱、対話の場面などが効果的に挿入される「ユグノー教徒」はグランド・オペラの代表作のひとつとされている。ベルリンの音楽総監督、プロイセン宮廷の音楽総監督を歴任し、ドイツ人作曲家として初めてレジオンドヌール勲章が与えられた。
アレヴィ(Jacques-Français-Fromental-Elias Halévy) 一七九九~一八六二
九歳でパリ音楽院に入学し、ケルビーニに師事する。一八一九年にローマ賞の一等を獲得。彼は精力的にオペラを多数作曲した。特に一八三五年に初演された「ユダヤの女」は劇的な合唱やアリアによる場面描写が高く評価され、現在でもグランド・オペラの主要なレパートリーのひとつとして上演の機会を多く持つ。同年オペラ・コミック座で上演された「稲妻」も人気が高く、この二作品がアレヴィがオペラ作曲家としての地位を確立するきっかけとなった。〔その他のオペラ作品〕「アヴィニョンのディレッタント」(一八二九)「キプロスの女王」(一八四一)「シャルル六世」(一八四三)
ベルリオーズ(Hector Berlioz) 一八〇三~一八六九
医者の家に生まれ、医学を学ぶためにパリに出るが、オペラに熱中して家族の反対を押し切り音楽家になることを決意する。オペラのほかにはロマン派標題音楽の先駆けとなった「幻想交響曲」が有名。フランス・ロマン派の代表的な作曲家であり、伝統にとらわれない自由な形式の管弦楽作品を生み出した。
[その他のオペラ作品]「ベンヴェヌート・チェルリーニ」(一八三八)「ベアトリスとベネディクト」(一八六二)
トマ(Ambroise Thomas) 一八一一~一八八六
パリ音楽院に学び、一八三二年カンタータ「エルマンとケティ」でローマ大賞受賞。四九年「地方行政官」の成功によりオペラ・コミックの代表的な作家となった。五六年パリ音楽院作曲家教授、七一年には同音楽院院長となる。伝統を重視しつつ叙情的な作風で知られる。[その他のオペラ作品]「ハムレット」(一八六八)
グノー(Charles François Gounod) 一八一八~一八九三
パリ音楽院で学び、一八三九年ローマ大賞を受賞。その後相次いでオペラを発表し成功を収めた。真にフランス的なオペラの確立に貢献し、次世代のビゼー、マスネなどに大きな影響を与えた。バッハの「平均律クラヴィーア曲集」の前奏曲に旋律をつけた「アヴェ・マリア」も有名である。
[その他のオペラ作品]「ミレイユ」(一八六四)
オッフェンバック(Jacques Offenbach) 一八一九~一八八〇
本名ヤーコプ・レヴィ・エーベルスト。父の生地にちなんでオッフェンバックと名乗るようなる。パリ音楽院で短期間学んだのち、チェロ奏者として活躍する。一八五五年、シャンゼリゼに自分の劇場「ブーフ・パリジャン」を設け数々の作品を発表、オペレッタ隆盛の契機をつくった。その影響はスッペやヨハン・シュトラウス二世、ギルバート&サリヴァン、さらに今日のミュージカルにまで及んでいる。
[その他のオペラ作品]「美しきエレーヌ」(一八六四)「ジェロルステン大公妃殿下」(一八六七)「ペリコール」(一八六八)
サン=サーンス(Camille Saint-Saëns) 一八三五~一九二一
パリ音楽院で学んだのち、ピアニスト・オルガニストとして活躍する一方、多数の交響曲や室内楽曲を発表。一八七一年自国の作曲家を支援し作品を発表するための国民音楽協会を設立し、八六年まで中心となって活動する。優雅な作風で知られ、世界的な名声を獲得し最晩年まで作曲を続けた。
ドリーブ(Léo Delibes) 一八三六~一八九一
パリ音楽院で学び、その後数々のオペレッタやオペラ・コミックを発表し、洗練された作風で人気を集めた。オペラのほかバレエ音楽の作曲でも知られる。一八八一年以降はパリ音楽院作曲家教授として後進の指導にあたった。
ビゼー(Georges Bizet) 一八三八~一八七五
幼少から音楽的才能を示し、一〇歳でパリ音楽院に入学する。今日世界で最もよく上演されるオペラのひとつである「カルメン」は、一八七五年の初演では人々に理解されず、ビゼーは失意のうちに三カ月後、三七歳の若さで死去した。[その他のオペラ作品]「ミラクル博士」(一八五七)「美しきパースの娘」(一八六七)
マスネ(Jules Massenet) 一八四二~一九一二
パリ音楽院でトマに学び、カンタータ「ダヴィデ・リッツィオ」でローマ大賞を受賞。一連のオペラの成功によりパリで最も人気の作曲家の一人となった。オペラ「タイス」の「タイスの瞑想曲」が有名。一八七八年からパリ音楽院の教授を務め、門下生にはギュスターヴ・シャルパンティエなどがいる。[その他のオペラ作品]「エロディヤード」(一八八一)「ル・シッド」(一八八五)「エクスラルモンド」(一八八九)「ナヴァラの娘」(一八九四)「サッフォ」(一八九七)「サンドリヨン」(一八九九)「ケルビーノ」(一九〇三)
シャルパンティエ(Gustave Charpentier) 一八六〇~一九五六
パリ音楽院でマスネに作曲を学び、在学中の一八八七年カンタータ「ディドン」でローマ大賞を受賞。管弦楽曲「イタリアの印象」で一躍有名となった。一九〇〇年発表の「ルイーズ」は大成功を収め、二一年一月オペラ・コミック座で五〇〇回目の上演が行なわれた。[その他のオペラ作品]「ジュリアン」(一九一三)
ドビュッシー(Claude Achille Debussy) 一八六二~一九一八
一〇歳でパリ音楽院に入学。一八八四年カンタータ「放蕩息子」によりローマ大賞を受賞する。その後さまざまな音楽に触れ、詩人マラルメや画家ルドンなど、音楽以外の分野の芸術家たちと交流することなどで独自の語法を確立していった。既成の形式にとらわれず、現代音楽への道を開いた二〇世紀初頭のヨーロッパの最も重要な音楽家の一人。
[その他のオペラ作品]「ロドリーグとシメーヌ」(未完)(一八九一~九二)「アッシャー家の没落」(未完)(一九〇四~一八)
デュカス(Paul Dukas) 一八六五~一九三五
パリ音楽院でギローに作曲を学び、在学中にローマ賞に応募してカンタータ「ヴェレダ」で二位に入選。作曲家としてピアノ曲、管弦楽曲、歌曲などの分野で活躍した。特に管弦楽法には定評があり、サン=サーンスとともに師であるギローの最後のオペラ「フレデゴンド」(一八九五)のオーケストレーションを担当し、完成させた。唯一のオペラ「アリアーヌと青ひげ」は、フランス・オペラの最も重要な作品のひとつである。
ラヴェル(Maurice Ravel) 一八七五~一九三七
一四歳でパリ音楽院に入学し、ローマ大賞には落選し続けたもの、学外で作曲家としての名声を得る。早くから個性的な様式を確立し、洗練された完成度の高い作風で知られる。管弦楽曲「ボレロ」やピアノ曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」などが有名。
オネゲル(Arthur Honegger) 一八九二~一九五五
フランス六人組の一人。国籍はスイスであり、チューリッヒ音楽院及びパリ音楽院で学ぶ。妻は作曲家でピアニストのアンドレ・ヴォラブール。サティへの傾倒やバーゼルの指揮者パウル・ザッハーとの交流は、彼の音楽活動において大きな影響を及ぼした。クローデルの台本によるオラトリオ「火刑上のジャンヌ・ダルク」は大きな成功を収め、現在でもたびたび上演されている。
〔その他のオペラ作品〕「ユディト」(一九二六)「アンティゴネ」(一九二七)「ポソル王の冒険」(一九三〇)
プーランク(Francis Poulenc) 一八九九~一九六三
フランス六人組の一人。当初はピアニストとして知られ、後に作曲家としても高い名声を得た。ディアギレフのロシア・バレエ団のために書いた「雌鹿」(一九二四)の初演が成功を収め、国際的に知られるようになる。アポリネールの戯曲に基づく「ティレジアスの乳房」(一九四七)やベルナノス台本の「カルメル会修道女の対話」(一九五七)はよく知られている。コクトーの台本による「人間の声」(一九五八)はソプラノ一人だけのモノ・オペラであり、感情描写に優れた作品である。
【ロシア】
グリンカ(Mikhail Ivanovitch Glinka) 一八〇四~一八五七
ロシアの作曲家。富裕な家庭に生まれ、サンクトペテルブルクの貴族寄宿学校に学ぶ。運輸省の官吏となったが退職し、イタリア及びドイツに赴いて西洋音楽を学び、同地の作曲家たちと交流を持つ。一八三六年に最初のオペラ「イワン・スサーニン」が上演されて成功を収めた。同作品には民族音楽の旋律が取り入れられており、民族音楽に強い関心を抱いていたグリンカの特徴が現れている。四二年に二作目のオペラ「ルスランとリュドミラ」を発表したが、同作では人気を得ることはできなかった。
ボロディン(Aleksandr Porfirlevich Borodin) 一八三三~一八八七
サンクトペテルブルク医科大学で医学と化学を学んだのち、バラキレフとの出会いを期にその指導により創作を始める。バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフとともにロシア国民楽派の「五人組」に数えられる。交響曲と室内楽を重視し、ロシア音楽に交響曲のジャンルを確立させた。
[その他のオペラ作品]「勇者たち」(一八六七)
ムソルグスキー(Modest Petrovich Mussorgsky) 一八三九~一八八一
地主階級の出身で、サンクトペテルブルクの士官学校在学中に作曲を試みる。士官時代キュイらと知り合い、バラキレフに理論を学ぶうち作曲家を志す。声楽曲と劇音楽のほか器楽曲にも才能を示すが、晩年は住むところもなく酒におぼれ、五人組の仲間たちとも疎遠になって極貧のうちに没した。[その他のオペラ作品]「ソロチンスクの定期市」(未完、キュイ補筆)(一八七四~八〇)
チャイコフスキー(Pyotr Ilyich Tchaikovsky) 一八四〇~一八九三
ロシア音楽の巨匠の一人で本国での一般人気は最も高い。さまざまなジャンルで優れた作品を数多く残した。ロシアの民俗音楽の要素も取り入れた優雅で表情豊かな旋律で知られる。[その他のオペラ作品]「オルレアンの少女」(一八八一)「マゼッパ」(一八八四)
リムスキー=コルサコフ(Nikolayi Andreevich Rimsky-Korsakov) 一八四四~一九〇八
ロシアの作曲家、指揮者。海軍兵学校で学びつつ音楽の勉強を続ける。テオドール・カニッレに師事し、彼から紹介されたロシア五人組の指導者バラキレフとの交流は若き音楽家に刺激を与え、作曲への関心をさらに高めることになった。一八七一年にサンクトペテルブルク音楽院の教授となった彼は自身の音楽理論にますます磨きをかけた。「ムラーダ」(一八九二)「サトコ」「モーツァルトとサリエリ」(以上一八九八)などのオペラ作品を生み出し、巧みな管弦楽法や民謡の旋律が効果的に用いられている。
プロコフィエフ(Sergei Sergeievich Prokof'yev) 一八九一~一九五三
ロシアの作曲家、ピアニスト。一九一五年よりヨーロッパやアメリカ各地で活動し、パリに長く定住する。数々のピアノ曲やディアギレフとの親交の中で生まれたバレエ音楽の作品でよく知られ、幅広い分野で作曲を行っている。オペラ「三つのオレンジへの恋」(一九二一)や「戦争と平和」(一九五五)は、バレエ音楽を得意としたプロコフィエフの特徴がよく出ており、音楽が登場人物の芝居を引き立たせ、印象的な場面を多く創り出している。三六年にロシアに帰国するが、スターリン体制下での作曲活動は困難を伴った。〔その他のオペラ作品〕「炎の天使」(一九五五)
ショスタコーヴィチ(Dmitrii Dmitrievich Shostakovich) 一九〇六~一九七五
サンクトペテルブルク音楽院で学び、卒業作品である交響曲第一番で世界的に注目される。スターリン独裁下の文化統制により批判されるなど苦汁をなめた。プロパガンダ的作品を書く一方、体制批判的な作品を密かに作曲するなど、その作品はソヴィエト現代史と複雑に関連している。[その他のオペラ作品]「鼻」(一九三〇)「賭博師」(未完)(一九四二)
【イギリス】
パーセル(Henry Purcell) 一六五九?~一六九五
一七世紀後半イギリスの代表的な作曲家。少年時代から王室礼拝堂少年聖歌隊員を務め、フランスやイタリアの音楽をイギリスに伝えた作曲家たちに学び、新しい音楽様式を取り入れた。その後宮廷作曲家、劇音楽の作曲家として活躍し、多くの作品を残した。
[その他のオペラ作品]「妖精の女王」(一六九二)「インドの女王」(一六九五)
サリヴァン(Arthur Seymour Sullivan) 一八四二~一九〇〇
イギリスの作曲家、指揮者。幼少時より音楽に親しみ、王室礼拝堂にて少年聖歌隊員として活動。一八五五年に最初の曲集が出版された。七六年から八一年まで英国音楽学校の校長を務め、七一年から台本作家ウィリアム・ギルバートと組んでオペラを作曲する。第二作目の「陪審裁判」(一八七五)は非常に人気が高く、二人の作品の上演を目的とする劇団が設立された。また日本展を契機とした当時のロンドンの日本ブームの中で生まれたオペラ「ミカド」(一八八五)はよく知られている。ギルバートとの協力関係を解消した後には高い評価を得ることはできなかった。
ブリテン(Benjamin Britten) 一九一三~一九七六
ロンドンのロイヤルカレッジで音楽を学ぶ。「ヴォツェック」を聴き、ベルクに師事することを望むが実現しなかった。卒業後ドキュメンタリー映画の音楽を担当するようになり、詩人オーデンの知遇を得る。アメリカで活躍したのち帰国、一九四八年からオールドバラ音楽祭を創設するなど、多方面で業績を残した。
[その他のオペラ作品]「ルクリーシャの凌辱」(一九四六)「アルバート・ヘリング」(一九四七)「オペラを作ろう(小さな煙突掃除)」(一九四九)「ビリー・バッド」(一九五一)「真夏の夜の夢」(一九六〇)「ヴェニスに死す」(一九七三)
【アメリカ】
ガーシュウィン(George Gershwin) 一八九八~一九三七
ユダヤ系ロシア移民の子として生まれ、多少の音楽教育を受けたのち一五歳で高校を中退して、楽譜店の宣伝ピアニストになる。その傍らポピュラー音楽の作曲を始め、その後クラシック界にも進出し、ポピュラーとクラシック両方の語法に精通した作曲家として名声を得る。晩年はハリウッドに進出し、女優との交際など華やかな生活を送ったが、三八歳の若さで没した。代表作「ポーギーとベス」は世界的に上演される唯一のアメリカ・オペラとして高く評価されている。
メノッティ(Gian Carlo Menotti) 一九一一~二〇〇七
ミラノ音楽院で学んだ後、一九二八年よりフィラデルフィアのカーティス音楽院で学ぶ。「アメリア舞踏会へ行く」(一九三七)でオペラ作曲家としてデビューし、室内オーケストラのための二幕のオペラ「霊媒」(一九四六)が大成功を収めた。翌年には同作品と対を成す一幕の喜劇「電話」も発表され、場面転換のない小規模なオペラは現在でも頻繁に上演されている。五一年に初演された「アマールと夜の訪問者」はテレビ用のオペラとして書かれた最初の作品であり、魅力的でわかりやすい作風が親しまれた。
〔その他のオペラ作品〕「ブリーカー街の聖者」(一九五四)
アダムズ(John Coolidge Adams) 一九四七~
ハーヴァード大学でレオン・キルシュナーに師事。初期作品は、グラスやライヒのように気鋭のミニマリストであったが、その後反復的な音型を後期ロマン派の和声や音色の中に融合させる手法へ変化した。一九七二年冷戦の最中、ニクソン大統領が中国を電撃訪問した事件を題材にしたオペラ「中国のニクソン」(一九八七)が成功を収める。また、アメリカ同時多発テロ事件の犠牲者を追悼して「On the Transmigration of Souls 」(二〇〇二)を作曲。〔その他のオペラ作品〕「クリングホファーの死」(一九九一)
【チェコ】
スメタナ(Bedich Smetana) 一八二四~一八八四
「チェコ国民楽派」の創始者。民族主義者サビナの台本による国民オペラや多数の交響詩に民族的主題を用い、特に祖国の伝説や歴史、思想などに基づいた標題音楽構想を標榜して近代的なチェコ国民音楽の樹立に貢献した。[その他のオペラ作品]「ダリボール」(一八六八)「リブシェ」(一八八一)
ドヴォルザーク(Antonín Dvoák) 一八四一~一九〇四
師スメタナとともに近代チェコ音楽の代表者の一人とされる。交響曲「新世界より」で名高い。ブラームスに認められて次々と成功に恵まれ、栄誉に彩られた生涯を送った。
[その他のオペラ作品]「ジャコバン党員」(一八八九)「悪魔とカーチャ」(一八九九)
ヤナーチェク(Leoš Janáek) 一八五四~一九二八
モラヴィア民謡の語法に基づく二〇世紀初頭の現代的書法を駆使した作品で知られる。ブルノなどで音楽を学んだのち、一八八八年よりモラヴィアの民俗音楽の収集に着手する。さらに九七年以降は話し言葉の抑揚を楽譜に書きとめ「発話旋律」の理論を系統立てた。
[その他のオペラ作品]「運命」(一九〇三~〇五)「ブロウチェク氏の旅行」(一九二〇)「マクロプロス事件」(一九二六)
【スペイン】
ファリャ(Manuel de Falla) 一八七六~一九四六
マドリード音楽院卒業後、国民主義音楽家ペドレルに師事。ルーカス著「新音響学」で和声へ開眼する。一九〇七~一四年のパリ留学時代にドビュッシー、ラヴェル、デュカスらと交流、大きな影響を受ける。グラナダ移住後は詩人ロルカと協力してカンテ・ホンド・コンクールを主催、アンダルシアの音楽の復興に尽力した。[その他のオペラ作品]「ペドロ親方の人形芝居」(一九二三)
【ハンガリー】
バルトーク(Béla Bartók) 一八八一~一九四五
ブダペスト王立音楽院(現リスト音楽院)で民族主義的な作風の作曲家兼演奏家として頭角を現す。その後真のハンガリー音楽の確立を目指して、ハンガリー民謡の収集、研究に尽力した。一九四〇年、ナチス支配を嫌ってアメリカに移住、その地で没した。
【ポーランド】
シマノフスキ(Karol Szymanowski) 一八八二~一九三七
ロシア政権下のポーランドに生まれる。シマノフスキ家は芸術一家であり、幼少期には父親から音楽の手ほどきを受けた。一九〇一年より本格的に音楽を学び始め、第一次大戦の頃には印象主義と表現主義から影響を受けた独特な音楽様式を確立させている。祖国ポーランドへの愛が自身の仕事への強い動機となっており、〇五年にベルリンにて「若いポーランド作曲家出版協会」を設立してポーランド音楽の奨励活動を行ったほか、二七年からはワルシャワ音楽院にて若い世代の育成に力を注いだ。〔その他のオペラ作品〕「夫捜しの富くじ」(一九〇八~〇九)「ハギト」(一九二二)
【中国】
譚盾(Tan Dun) 一九五七~
中国音楽院で学び、一九八五年に渡米、コロンビア大学で周文中(チョウ・ウェンチョン)に師事。グラスやケージといった作品に触れ、幼少期に習った二胡や京劇、音楽院で学んだクラシック音楽などを融合した作品を目指すようになった。オペラ「Tea: A Mirror of Soul」は、二〇〇二年にサントリーホールにおいて作曲家自身が指揮するNHK交響楽団によって世界初演された。
〔その他のオペラ作品〕「マルコ・ポーロ」(一九九五)「遊園驚夢Peony Pavilion」(一九九八)「遊園驚夢Peony Pavilion」(二〇一二)「The First Emperor」(二〇〇六)
【日本】
山田耕筰(Yamada Kosaku) 一八八六~一九六五
早くに両親と死別し、姉とイギリス人宣教師であった義兄に養育された。幼少時から英語の賛美歌やピアノに親しみ、東京音楽学校に入学。卒業後にベルリン王立アカデミー高等音楽院作曲科にてカール・オルフに師事。在学中に彼の初期の代表作となる管弦楽曲群を書き、帰国直後は数十曲のピアノ曲を集中的に作曲している。管弦楽、器楽曲、劇場音楽などの分野で作曲活動を行い、国内外で活躍した。一九二二年から始まった北原白秋との協力によって生まれた一連の歌曲は、現在もなお愛唱されている。
〔その他のオペラ作品〕「あやめ」(一九三一)
清水 脩(Shimizu Osamu) 一九一一~一九八六
東京音楽学校で橋本国彦に師事。一九四六年日本合唱連盟の設立に参加、東京男声合唱団を主催するほか、日本オペラ協会の活動を通じて合唱音楽とオペラの発展に尽力した。著書に「音楽理論」。
[その他のオペラ作品]「炭焼姫」(一九五六)「セロ弾きのゴーシュ」(一九五七)「青空を射つ男」(一九五九)「聟選び」(一九六九)
小山清茂(Koyama Kiyoshige) 一九一四~二〇〇九
長野師範学校卒業後、安部幸明に師事。上京し教員を続けながら、東京都の委託生として東京藝術大学で池内友次郎に師事。日本の民謡や伝統芸能の音を作品に取り入れ、西洋音楽の豊かなオーケストレーションで支える作品を特徴とする。「管弦楽のための木挽歌」(一九五七)は海外でも評価が高い代表作。
〔その他のオペラ作品〕音楽劇「楢山節考」(一九五九)
大栗裕(Oguri Hiroshi) 一九一八~一九八二
旧制天王寺商業の音楽部でホルンを始め、作曲は独学で学ぶ。一九四一年に当時の東京交響楽団のホルン奏者となり、朝比奈隆と親交を深める。その後日本交響楽団、宝塚歌劇場を経て、五〇年から朝比奈隆に招かれ関西交響楽団で活躍。五五年、木下順二の翻案オペラ「赤い陣羽織」で作曲家デビュー。マンドリンオーケストラのための作品も多い。
〔その他のオペラ作品〕「夫婦善哉」(一九五七年)「雉っ子物語」(一九五八年)「おに」(一九五八年)「飛鳥」(一九六七年)「地獄変」(一九六八年)「ポセイドン仮面祭」(一九七四年)
石井歓(Ishii Kan) 一九二一~二〇〇九
玉川学園中等部在学中に呉泰次郎に、武蔵野音楽学校在学中に学外で池内友次郎に作曲を師事。戦後ミュンヘン国立音楽大学に留学し、カール・オルフに師事。「日本の歌」運動による日本の民謡の再発見、音楽教科書の編纂、全日本合唱連盟理事長など、広く音楽界全体のために活躍。作風は、日本の民族性に根ざした作品が多く、父石井漠の舞踊団のために「神とバヤテレ」(一九五〇)などのバレエ音楽、「枯木と太陽の歌」(一九五五)の合唱曲や、NHKの委嘱によるオペラ「役の行者」(一九六三)を作曲。
別宮貞雄(Bekku Sadao) 一九二二~二〇一二
東京帝国大学で物理学、次いで美学を学ぶ一方、作曲を池内友次郎に師事。一九四六年に「管弦楽のための二章」がコンクールで認められる。五一年から五四年までパリに留学し、ミヨーやメシアンなどの影響を受けた。旋律の美しさに定評があり、声楽曲は上演の機会も多い。「三人の女達の物語」(一九六四)など、狂言を元にしたオペラを作曲している。
〔その他のオペラ作品〕「有間皇子」(一九六三~六七)
團 伊玖磨(Dan Ikuma) 一九二四~二〇〇一
東京音楽学校で下総皖一、細川碧、橋本国彦に学ぶ。一九五三年、黛敏郎、芥川也寸志とともに「三人の会」を結成し管弦楽作品を発表。西洋音楽の伝統的なスタイルによるオーケストラ作品とオペラが創作の中心になる。[その他のオペラ作品]「ききみみづきん」(一九五五)「ちゃんちき」(一九七五)「素戔鳴」(一九九四)
芥川也寸志(Akutagawa Yasushi) 一九二五~一九八九
芥川龍之介の三男として生まれる。一九五〇年に発表した「交響管弦楽のための音楽」は高く評価され、アメリカにおいて二百回以上演奏された。ショスタコーヴィチやハチャトリアンなどのソヴィエトの音楽家と親交があり、同国の音楽様式とオスティナートを多用した自身の様式とを巧みに融合させ、音を抜いていくことで東洋的な響きを創り出す作曲法は「マイナス音楽論」と呼ばれた。六〇年には大江健三郎台本によるオペラ「暗い鏡」を発表。この作品は後に改作され、「ヒロシマのオルフェ」として六七年に上演されている。
黛 敏郎(Mayuzumi Toshirou) 一九二九~一九九七
中学の頃より独学で作曲を学び、後に東京音楽学校作曲科に入学。在学中はジャズ・バンドのピアニストを務めるなど、多様な音楽様式に親しんだ。一九五一年にフランス政府留学生としてパリに留学し、最先端の音楽に触れるとともに三島由紀夫と交流を持つ。帰国後はミュジック・コンクレート作品や電子音楽作品を発表し、現代音楽の作曲家として注目を集める。五八年の「涅槃交響曲」を契機として日本音楽を自身の作品に取り入れるようになり、日本文学を題材としたオペラ「金閣寺」(一九七六)をドイツで、「古事記」(一九九六)をオーストリアで初演している。
松村禎三(Matsumura Teizou) 一九二九~二〇〇七
池内友次郎と伊福部昭に師事。前衛音楽と古典的な作曲教育が二つの大きな潮流であった五〇年代の日本にあって、自らの音楽語法で作曲する能力が評価され、一九五五年に「序奏と協奏的アレグロ」が日本音楽コンクール第一位を受賞。五七年に発表された「阿知女」にみられるような反復や半音階的に進行するオスティナートを特徴とし、遠藤周作の小説を原作としたオペラ「沈黙」(一九九三)にもその音楽語法が顕著に現れている。
間宮芳生(Mamiya Michio) 一九二九~
日本の民謡を素材とした楽曲を数多く発表し、一九五五年からはピアノ伴奏つきの「日本民謡集」全五巻の出版に着手する。作品における民族音楽との結びつきはオペラや合唱曲などのさまざまな分野でみられており、民族音楽を自らの語法で再構築するスタイルが特徴のひとつとなっている。オペラ「鳴神」(一九七四)にてザルツブルク・テレビオペラ賞金賞を受賞。〔その他のオペラ作品〕「昔噺人買太郎兵衛」(一九五九)「夜長姫と耳男」(一九九〇)
三木 稔(Miki Minoru) 一九三〇~二〇一一
東京藝術大学で池内友次郎、伊福部昭に師事。邦楽器の可能性を追求し、一九六四年に日本音楽集団を創立し現代邦楽を牽引した。七五年に最初のオペラ「春琴抄」でジロー・オペラ賞を受賞。オペラの題材を日本史に求めているところが特徴である。また「うたよみざる」(一九八三)「よみがえる」(一九九二)といったフォークオペラもある。
〔その他のオペラ作品〕「あだ」(一九七九)「ワカヒメ」(一九九一)「静と義経」(一九九三)「隅田川」(一九九五)「くさびら」(一九九五)「源氏物語」(一九九九)「幸せのパゴダ」(二〇一〇)
牧野由多加(Makino Yutaka) 一九三〇~二〇〇五
慶應義塾普通部中退、作曲を山田耕筰に師事。山田耕筰のオペラ活動の意思を受け継ぎ、「あやめ」(一九六〇)で芸術祭大賞を得る。また邦楽四人の会のために書き下ろした「邦楽器四重奏による茉莉花」(一九六四)など、多くの革新的な邦楽作品によって現代邦楽の発展にも貢献した。
〔その他のオペラ作品〕「くさびら」(一九六一)「船弁慶」(一九六二)「班女」(一九六三)「雪女」(一九六四)「鹿踊りのはじまり」(一九六七、改版一九七四)「綾衣長者」(一九六八)「安寿と厨子王」(一九七九、改訂一九八八)「雨月物語」(一九九五)
林 光(Hayashi Hikaru) 一九三一~二〇一二
十代の頃より劇場音楽の作曲に携わり、東京藝術大学在学中に、間宮芳生、外山雄三とともに国民音楽の創造に役立つ活動を目的としたグループ「山羊の会」を結成。沖縄音楽やアイヌ音楽などを取り入れた多彩な音楽語法で数多くの作品を発表する。日本語のテキストを生かした声楽曲は高く評価されており、一九七五年からオペラシアターこんにゃく座の音楽監督に就任して日本語オペラの発展に尽力する。〔その他のオペラ作品〕「あまんじゃくとうりこひめ」(一九五八)「白墨の輪」(一九七八)「白いけものの伝説」(一九七九)「セロ弾きのゴーシュ」(一九八六)
水野修孝(Mizuno Shuukou) 一九三四~
千葉大学で邦楽を学んだ後、東京藝術大学で作曲を柴田南雄、長谷川良夫に師事。民族音楽学者の小泉文夫からも影響を受ける。一九七四年アメリカ留学、混血文化に惹かれ、以後の作品はクラシック、現代音楽、ジャズの技法が融合した作品となる。七七年にはNHKの委嘱により、泉鏡花原作の幻想文学をオペラ化した「天守物語」で大成功を収める。〔その他のオペラ作品〕「美女と野獣」(一九八九、二〇〇三改訂)「ミナモ(後に「愛の妖精」と改題)」(一九九一)ミュージカル作品「泣きたくなったら笑うんだ」(一九九三)「 イノセント・ムーン」(一九九九)
一柳 慧(Ichiyanagi Toshi) 一九三三~
ジュリアード音楽院卒。作曲を中学より平尾貴四男、池内友次郎に学ぶ。一九歳で渡米し、ジュリアード音楽院でヴィンセント・パーシケッティ、ジョン・ケージに師事。ケージの思想に強く影響を受ける。また、スティーヴ・ライヒの作品を紹介し、日本のおけるミニマル・ミュージックの先駆けとなった。一九六八年にテープ音楽作品であるオペラ「横尾忠則を歌う」を発表。八〇年頃からは、西洋のあらゆる現代的手法を総合的に扱った作品や邦楽器を用いた作品も増える。
〔その他のオペラ作品〕「モモ」(一九九五)モノオペラ「火の遺言」(一九九五)「愛の白夜」(二〇〇六)
石井真木(Ishii Maki) 一九三六~二〇〇三
舞踊家石井漠の三男として生まれる。ベルリンに留学してヨーゼフ・ルーファーに十二音技法を学び、帰国後に十二音技法を中心とした作品が小澤征爾の指揮で演奏された。一九六六年に法隆寺や東大寺で声明を聴き、これにによって日本的・東洋的な静的時間と西洋的な動的時間を認識し、これらの概念が作品の構成にも取り入れられるようになった。作品はドイツでも高く評価されており、自身も「日独現代音楽祭」や「パンムジーク・フェスティヴァル」などの活動に積極的に携わった。
原 嘉壽子(Hara Kazuko) 一九三五~
東京藝術大学作曲科を卒業後、フランス及びイタリアに留学。歌唱への造詣が深く、一九六三年にはベネデット・マルチェッロ音楽院声楽科を卒業している。七八年の「智恵子抄」を皮切りに次々と日本語によるオペラを発表。社会問題を題材とした「脳死を超えて」(一九八七)、新国立劇場で上演された「罪と罰」(一九九八)などがよく知られており、地方オペラの作曲も積極的に行っている。〔その他のオペラ作品〕「すて姫」(一九八五)
三枝成彰(Saegusa Shigeaki) 一九四二~
東京藝術大学及び同大学院卒業。在学中はほぼクラシックのみに関心が向けられていたが、しだいに現代音楽と聴衆のとの歩み寄りを目指し、ロックと現代音楽の融合などの試みを行うようになる。映画やテレビなどの映像作品や音楽祭、スポーツ競技会における音楽活動にも積極的に携わっている。オペラ作品を生涯に十六作品書くことをライフワークとしており、十年近い構想を経て発表された「忠臣蔵」(一九九七)や、「蝶々夫人」の息子を主人公にした「Jr.バタフライ」(二〇〇四)などが有名である。
〔その他のオペラ作品〕「好色一代女」(一九七七)「サロメ」(一九七八)
池辺晋一郎(Ikebe Shinichirou) 一九四三~
東京藝術大学で池内友次郎、三善晃、矢代秋雄に師事。在学中の「クレパ七章」(一九六六)が高く評価された。交響曲の作品からオペラ、映画音楽、NHKの大河ドラマの作品とジャンルは広く、作風はアカデミックな語法を踏まえた上で、独自のアイディアに富んだ構成力を特徴とする。また、テレビの音楽番組の司会や多数の著作でも知られている。一九七一年に作曲されたオペラ「死神」は、ザルツブルク国際テレビ祭最優秀賞を受賞。
〔その他のオペラ作品〕「耳なし芳一」(一九八二)「秩父晩鐘」(一九八八)「おしち」(一九九五)「じゅごんの子守唄」(一九九六)
久保摩耶子(Kubo Mayako) 一九四七~
大阪音楽大学ピアノ科卒業後、ウィーン音楽大学で作曲をローマン・ハウベンシュトック=ラマティ、エリッヒ・ウルバンネル、フリードリッヒ・チェルハに、ドイツのハノーファー州立音楽大学でヘルムート・ラッヘンマンに師事。一九八五年からベルリンを拠点にヨーロッパで活躍。グラーツ歌劇場委嘱のオペラ「羅生門」(一九九六)がヨーロッパ中で絶賛された。同作品は二〇〇二年、日生劇場で本邦初演された。〔その他のオペラ作品〕「おさん~心中天綱橋」(二〇〇五)「クモの糸」(二〇一〇)
青島広志(Aoshima Hiroshi) 一九五五~
東京藝術大学卒業。作曲を池内友次郎、宍戸睦郎、矢代秋雄、林光に師事。同大学大学院を首席で修了し、修了作品であるオペラ「黄金の国」(一九八〇)の自筆譜が藝大図書館に購入される。同作品は、一九八二年に東京都芸術フェスティバルで初演された。オペラ作品だけではなく、軽妙な語り口でテレビの司会者としても活躍している。
〔その他のオペラ作品〕「火の鳥 黎明編」(一九八二)「たそがれは逢魔の時間」(一九八三)「黒蜥蜴」(一九八四)「龍の雨」(一九八八)「いたくおかしな恋物語」(一九九一)「小オペラ」(二〇〇〇)
平井秀明(Hirai Hideaki) 一九七〇~
幼少よりチェロを父 平井丈一朗に、ピアノと作曲を祖父 平井康三郎に師事。米国ロチェスター大学政治学科卒。イーストマン、ピーボディ、ヤナーチェク音楽院で指揮法を学ぶ。一九九七年フラデッツ・クラーロベ国際指揮者コンクール(チェコ)で第一位。二〇〇三年には、作曲、台本、指揮の三役をこなしたオペラ「かぐや姫」を初演。日本各地で再演を重ね、海外ではキャンベラ、プラハ、ザルツブルク、アニフでも上演された。二〇一〇年よりチェコ・ヴィルトゥオージ室内管弦楽団の首席客演指揮者に就任。
〔その他のオペラ作品〕「小町百年の恋」(二〇〇八)、「白狐」(二〇一三)
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