ダーク・ダックス誕生

HOME > メディア > 合唱界 > ダーク・ダックス誕生
  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

「合唱界」VOL.1-2(昭和32年1月20日発行)より
ダーク・ダックス誕生
          喜早 哲

 毎日毎日コーラスの練習に追いかけられ、難しい譜面を先輩に叱られ叱られ練習していた頃、ちょっとした気休めに見た映画『ヒット・パレード』の中で、ゴールデンゲート・クワルテットの歌っていた「ジョシアの戦い」を聞いて、ジャズコーラスに魅力を感じたことが、まさか、仕事となろうとは、夢にも思っていませんでした。
 私たち「ダーク・ダックス」は、ご承知の方もおありでしょうが、「慶應義塾ワグネルソサィエティー合唱団」の出身です。いわゆるアマチュアコーラスの出身です。もちろん私たちも最初の頃はまったく読譜力などなく先輩が魔術を使うがごとく、初見の譜面で、バリバリと歌うのを、あれよあれよと見ているだけでした。早くあの魔法を身につけて、好きな歌を自由に歌いたいなどと思ったものです。皆、それぞれ個人レッスンにもつき、また、学校のワグネルの訓練でも、相当にしぼられましたし、また先輩などに、新しいコーラスの譜面を持ってこられて「どんなものか歌ってみるから君はこのパートを歌え」などと命令(?)されて、一人で初見の譜を歌わされる辛さ、そんなことが身に染みて、皆、一生懸命に読譜力を養いました。さて読譜力がついてくると、新しい歌をやるのが楽しみでしょうがなくなってきます。4、5人の者が集まると、「これ歌ってみようじゃないか」など、新しい歌に対する興味がどんどんと増してきたものです。学校には、ワグネルのルームというものがあって、そこに暇があれば集まり、いろいろな譜面を持ち寄っては歌ったものです。今考えてみれば、このことがコーラスの読譜力の養成に一番力になったようです。
 また、反面、学生中には、そんな苦しさだけではありませんでした。夏休みに入るとワグネルの合宿が、富士山麓の山中湖で一週間催されます。歌う者にとって、山での、そして湖畔でのコーラスは忘れられないものの一つですね。私たちもご他聞に漏れず、充分に、青春の歌声を楽しみました。苦しい練習が済んで、自由時間になり、湖へボートを漕ぎに出ても、いつしか湖上でボートがいくつも集っては歌を歌いだしました。また夜の湖畔では、キャンプファイアーをたいては、火の消えるまで歌いました。
 また、冬になれば、仲間同士で学校の「赤倉山荘」へスキーに出かけていき、昼間滑ったり転んだりしながらも、夜になるとストーブを囲んでは、飽きもせず歌っていました。まったく、合唱なくしては生活もなにもない。合唱の虫の学生生活でした。
 ちょうどその頃、ワグネルの「クリスマスパーティー」が企画され、それぞれに飛び入り芸を行うことになったのです。その時と、『ヒット・パレード』を見た時とが、偶然にも一致していたのです。我々が今までやってきたコーラスでは、まったく理解のゆかないハーモニー。そして想像もできないバランスの良さ。それも、しかも4人で創り出す音なのです。私たちで、あのような音が出せないものだろうかと、若い私たちが考えたのも無理からぬ話です。それで、一つそれをやってみて、うまくいったらば、クリスマスの余興に出してみようということになったわけです。当時流行の「マイ・ハピネス」という歌に、あとはおきまりの「ジングルベル」「ホワイトクリスマス」です。
 大した練習もせずに、当日、渋谷の「グランドハイツ」を貸し切った会場で、インチキバンドをバックに歌ったところが、いかめしい先輩も案外、私たちの心配をよそに喜んでくれました。この成功がもとになっていろいろなことが始まったわけです。ちょうどその頃、耳にしたのが、ドイツの「コメディアンハーモニー」のコーラスでした。遠山君の家に皆で押しかけて、このコーラスの「菩提樹」とか「野ばら」などを聞きました。そのハーモニーは、私たちがいつも歌う「菩提樹」などとは違ったものでした。あまりに身近な歌。それなのに、美しいハーモニーバランス。これはゴールデンゲートを聞いた時よりも刺激が強かったのです。ハーモニーの美しさと同時にバランスの良さというものに私たちはとりつかれ、バランスを第一にしてドイツ・ミサなどをやりました。そして発見したことは、ハーモニーが平凡でも、それを正確にバランスを保てば、今まで以上の美しさを出せるということでした。このことは、今のアマチュア合唱団で最も大切なことと思います。
 さて、その頃から私たちのグループは「ダーク・ダックス」と名付け、合唱団のレクリエーションの時などにはいつも引っ張り出されては歌いました。歌うという喜びに満ちていた毎日でした。朝から晩まで、それこそ、毎日歌いづめでした。それもコーラスばかりを。この間に、私たちのハーモニー感が、知らず知らずに養われていったようです。
 このようにして楽しみだけで歌っていた私たちも、時々NHKでホームソングやジャズコーラスを放送しました。それを何かの機会に聞かれたのでしょう。ブルー・コーツの小高さんに、当時ラジオ東京で毎週放送していた、「味の素ミュージックレストラン」に出演するように言われました。私たちは日本最高のフルバンド「ブルー・コーツ」と一緒に演奏できるというだけで大いに感動したのに、ナンシー梅木と共にというので、それこそ、大変な意気込みでした。幸いその放送に好評を得て、それから漸次出演すると同時に、他の番組にもポツポツと出るようになりました。そのうちに「ミュージックレストラン」のレギュラーになり、放送の仕事の他にステージからも出演を依頼され、片手間に楽しんでいられなくなってきたわけです。そこで、ちょうど去年の5月、大阪労音の例会に出た時から、はっきりプロとして出発したわけです。
 当時、コーラスとして、果たして生活ができるものかどうか危ぶまれ、会社勤めをしていた人間も、学生だった者も、非常に当惑しましたが、コーラスは育たないという定評のあるこの日本に、私たちの手でそれの根を下すのも、パイオニアのようで非常にやりがいのある仕事ではないか、という点で皆の意見が一致し、この冒険に飛び込んだわけです。
 険しい道でしたが、幸い放送関係者の温かい理解と相まって、放送によく出るようになり、自然に、コーラスに対する理解者、ファン等も増えてきたのです。世の中がこのようにコーラスを職としてやっていけるとわかると次第に私たちのようにこれを仕事として始める者も多くなり、数多くのプロ・コーラスが生まれてきたようです。これだけでも、私たちの心に決めた役目の一つは、果たせたわけです。私たちは、このようにコーラス啓蒙運動の捨て石になるかもしれません。それでも私たちは満足なのです。そのために、たとえ収入にはならなくとも、良い仕事をしようと思っております。
 この正月には俳優座劇場で子供劇場に出演し、新しい童謡の運動の一翼を担うことになりました。レコードでも、先日来、テイチクポケット盤で、ロシア民謡シリーズを吹き込んでおります。アマチュア合唱団の方々のために少しでもお役に立てば幸甚です。
 私たちの今日までの歩みは以上のようなものでした。しかし、これからの私たちの行く先は多難なものだと思います。前に言ったような、良い仕事をやってゆかねばならないし、また、ジャズコーラスであるからには、人気というものも大いに気にしなければなりません。他にも多くのジャズコーラスが出ている以上、これとの競争にも負けてはいられません。
 この二つのジレンマに悩まされるこの頃です。でも、私たちは、やはり最初の目的通り、多くの人にコーラスの楽しさ、美しさを少しでもわかってもらえるよううな努力を続けていくべきだと思っています。
 合唱というものは、誰でも、簡単に、しかも楽しくできるものなのです。歌うということは、本当に楽しいことなのです。最初は、何しろ口をあけて歌うことです。「合唱の社会的地位」とか「コーラスの哲学的分析」などということは、初歩には必要ないと思います。というよりも、これからコーラスに入ろうとするものにとっては、難しい壁に最初からぶつかると、やろうという貴重な気持ちをくじかれてしまうことになると思うのです。それよりも、歌う喜びを少しでも知らせるようにするのが第一の仕事と思うのです。私たちもこの意味で、後援会の集まりでは、みんなでコーラスなどやっています。
 楽しいことです、歌うということは。健康な歌を、健全な、清潔な気持ちで歌う時に、初めて美しい歌が、ハーモニーが生まれると思っています。
 美しさを、楽しさを、歌の中に表現できること。それも家中で、職場の人、全部ではそして日本中が美しい清潔なコーラスで埋まる日も遠いことではないと思っています。
 それまで、私たちは、一生懸命に良い演奏をするよう努力してゆきましょう。
※仮名遣いは現代のものに、その他の表現等は当時のものを使用しております。

この他の「合唱界」掲載記事はこちらから

  • LINEで送る
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 
KAWAI
YAMAHA WEBSITE