楽器の事典ピアノ 第4章 日本の代表的な2大ブランド 技術者養成にも力を注いだ寅楠氏

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世界のトップの座に輝く《ヤマハ》のピアノ

技術者養成にも力を注いだ寅楠氏

 さて、ヤマハがカメン・モデルの製造を始めてから数年たって、独自の設計になる部品が次々とっくられていく。フレームは浜名織機製作所に発注して製作され、木材の人工乾燥も、材料を直接火に当てることによって行われた。また特殊な工具も自分たちで設計して作り、低音部の弦に銅線を巻きっけるむずかしい作業も間もなく始まっている。明治四十年にはアクションもっくれるようになった。ただハンマーとミュージックーワイヤーの国産化は、当時の日本の工業水準からどうしても不可能で、課題は昭和の時代までもちこされることになる。
 明治四十年代のものと推定されるヤマ楽大学に残っているが、これはもうヤマハ・アップライトピアノが国立音
独自の設計になっている。デザインもカメン・モデルが装飾的なのに対して、こちらの方はぐっとシンプルでモダンになっている。十年間の進歩の早さは驚くべきものである。ピアノの生産も明治四十年には百十七台、明治四十四年には何と五百一台を数えるに至っている。
 海外の博覧会にも製品を精力的に出品した。明治三十七年(一九〇四)にはセントルイスで開かれた万国博覧会にピアノとオルガンを出品して名誉大賞を受けたが、これは国産の楽器が海外で受賞した最初のものとなった。四十二年(一九〇九)にはシアトルで開かれた博覧会に、四十三年にはロンドンで開かれた一日英大博覧会にピアノとオルガンを出品し、いずれも名誉賞牌を受けている。国産品をもって外国製品に代えようとする寅楠
氏の志がうかがえる。
 一方、寅楠氏は技術者の養成にも力を注いだ。技術者の家に育った彼は産業の発展にすぐれた技術者が数多く必要なことをよく認識していた。それだけでなく、楽器の製作に、わが国の伝統的な技術が十分活用できることもまたよく見ぬいていたのである。
 寅楠氏の最初の助手となった河合喜三郎氏は飾り職人だったが、寅楠氏は、大工や建具職にも目をつけ、若い者を集めている。そして彼らを近代的な技術者へと厳しく鍛えなおそうとつとめている。だがその彼も、いや、むしろそうした寅楠氏だからこそ、アメリカで見た労働者の働きぷりには感嘆せざるを得なかった。明治三十三年六月十四日、シカゴで、キンボール社を訪問した日の日記に次のようにかいている。
 「本日にて三四日工場を見るも職工の働き振りは余等巡視につき殊更ら励み見せるかの疑ひはありしも本日は篤と其実相を見たり。全く能く働くなり、我国の職工などは遠く及ばず」
 しかし寅楠氏の努力の甲斐あって、研究心の旺盛なすぐれた技術者が育っている。なかでも傑出していたのは尾島直吉氏(寅楠に見込まれ、後に寅楠氏の姪と結婚して山葉姓を名乗る)と河合小市氏であった。
 山葉直吉氏は直感力にすぐれ、新しいピアノ製作のために、現在からみても驚くほどの、数々の試みを行っている。たとえば、響板の材料として日本に多く産する桐、杉、檜などを用いて実験し、そのなかから北海道の黒松、天塩檜を選び、その木どりの仕方や接着方法についてもすぐれた方法を考えだしている。また、調律の方法も独自に考案した。
 彼は弟子の教育にも熱心だった。彼のもとから昭和期のヤマハを背負って立つ何人もの技術者が育っている。彼の弟子でなぐられない者はないといわれるほど厳しかったが、反面、部下の面倒もよくみた。明治三十九年十三歳でヤマハに入社、ずっと山葉直吉氏のもとで育った尾島一二氏は当時を回想して次のように語っている。
 「寅楠社長は、私か大ったときにはもう工場にはあまり来ませんでしたがそれでも、爪をのばしていると鍵盤に傷をつけるから切れといわれたり、怒られたりしました。
 直吉さんは実にこわかったですね。でもあの人のおかげで、ピアノというものがわかるようになりました。このピアノは悪いとか良いとか、あの人がみるとひと目でわかってしまうのです。ですから歴代のピアノ課長は直吉さんにほめられるとそれは喜んだものです。それから偉かったのは木工の宮本辰五郎さんの兄さんですが、伝統的な大工の仕事を、ピアノの製作に実にうまく生かした人です。直吉さんの考え出したことをこの大が実際に細工していったわけです」
 山葉直吉氏の下に河合小市氏がいた。彼は直吉氏がピアノ部長の時にアクション課長をつとめ、直吉氏が工場長になるとピアノ部長になった。
 彼は大正末の日楽大争議のあと、独立して河合楽器をつくることになる。
 大正五年(一九一六)経済不況を乗りきったヤマハは、将来の発展を期して、浜松市中沢町(現在本社工場があるところ)に六万平方メートルという広大な工場用敷地を購入している。しかし、寅楠氏は工場の完成をみることなく、この年の八月、病を得て他界する。六十四年の生涯であった。

ヤマハリードオルガン.png



 
改訂 楽器の事典ピアノ 平成2年1月30日発行 無断転載禁止


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