フレデリック・フランソワ・ショパンの年譜
“ピアノの詩人”と称されるポーランド出身の天才作曲家
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年代(年齢) | 主なできごと | 主な作品 |
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1810年(0歳) | 3月1日、フレデリック・フランソワ・ショパン、ポーランド・ワルシャワ郊外ジェラゾヴァ・ヴォラにて生まれる。 | |
1814年(4歳) | 姉のルドヴィカ、次いで母ユスティナの手ほどきによりピアノを弾き始める。 | |
1816年(6歳) | 音楽家、ヴォイチェフ・ジヴニーにピアノを習い始める。 | |
1817年(7歳) | 現存する初めての作品『ポロネーズ ト短調』を作曲・出版。 | ポロネーズ第11番 ト短調 |
1818年(8歳) | ワルシャワで初めてV.イーロヴェツの「協奏曲第5番ホ短調」を公開演奏。 | |
1826年(16歳) | ワルシャワ音楽院に入学。 | マズルカ風ロンド ヘ長調 3つのエコセーズ ピアノ三重奏曲 ト短調 夜想曲 ホ短調(1827) 葬送行進曲 ハ短調(1827) |
1829年(19歳) | コンスタンツィア・グワドコフスカに淡い恋心を覚える。ワルシャワ音楽院を首席で卒業。 | 3つのポロネーズ(1829) |
1830年(20歳) | ワルシャワの演奏会で『ピアノ協奏曲第2番 ヘ短調』を演奏。ウィーンに向かう。途中、ロシア帝国の支配に対するポーランドの武装反乱、ワルシャワ蜂起が起ったが失敗したという報に接して『革命のエチュード』が作曲されたとしている。 | ピアノ協奏曲第1番 ホ短調(1830) |
1831年(21歳) | 9月 パリ到着。 | |
1832年(22歳) | プレイエルホールにてパリデビュー。 | ロンド 変ホ長調(1832) |
1833年(23歳) | パリ「ポーランド支部協会」会員となる。 | ワルツ 変ホ長調『華麗なる大円舞曲』(1833) 華麗なる変奏曲 変ロ長調(1833) ボレロ ハ長調(1833) |
1835年(25歳) | ドレスデンでマリア・ヴォジンスカと恋に落ちる。メンデルスゾーンの紹介でロベルト・シューマン、クララ・ヴィークと知り合う。 | |
1836年(26歳) | マリア・ヴォジンスカに求婚、婚約。 おそらくこの年にマリー・ダグー伯爵夫人の紹介でジョルジュ・サンドと出会う。 |
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1837年(27歳) | 重い流感を病む。マリア・ヴォジンスカから別れをほのめかす手紙が届く。 | スケルツォ第2番 変ロ短調(1837) |
1838年(28歳) | マルリアーニ伯爵夫人の夜会でショパンとサンド再会。サンドはショパンに「あなたを熱愛する者がいます」と書いたカードを贈る。 ショパンとサンド一家は別々にパリを発ち、スペイン国境で落ち合ってともにマジョルカ島に渡る。半年間結核療養で滞在するも悪化。 |
24の前奏曲(1838) 春(アンダンティーノ) ト短調(1838) |
1839年(29歳) | 6月ノアンのサンドの別荘に落ち着く(その後、パリ、ノアンを行き来し、サンドの手厚い庇護のもと、数々の傑作を生む)。 | |
1840年(30歳) | ショパンもサンドもパリで過ごす。 | ワルツ 変イ長調「大円舞曲」(1840) スケルツォ第4番 ホ長調(1842) |
1844年(34歳) | ワルシャワより父の訃報が届く。意気消沈したショパンを気遣ってサンドが姉ルドヴィカ夫妻をパリやノアンに招待する。 | 子守歌 変ニ長調(1844) ピアノソナタ第3番 ロ短調(1844) 舟歌 嬰ヘ長調(1846) |
1847年(37歳) | サンドの娘ソランジュが、彫刻家のオーギュスト=ジャン・クレサンジュと結婚。この結婚をきっかけにサンドはショパンに別れの手紙を送る。 | |
1848年(38歳) | パリでの最後の演奏会。 弟子のジェーン・スターリングに誘われてイギリスロンドンに滞在、ヴィクトリア女王の御前演奏など好評を博すが健康状態は急激に悪化。 |
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1849年(39歳) | パリで永眠。 |