楽器の事典ピアノ 第3章 世界の代表的ブランド 欧米遍 プレイエル

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世界的な名声を勝ち得た名器とその系譜
 

プレイエル

  ウィーンの近くのリュッべルスタールという小さな村にプレイエルという名の校長先生がいた。彼は二度結婚し、二人の奥さんとの間に三十八人の子供をもうけ、九十九歳まで生きたと記録されている。
 イグナッツ・ジョセフ・プレイエルは、一七五七年にその二十四番目の子として生まれた。彼は生来の天才児で、父はその素質をいち早く見抜き幼い頃からラテン語を教え、さらにウィーンに送ってピアノとバイオリンの演奏を学ばせた。三十八人もの子を持つ校長がイグナッツを遊学させることは容易でなかったであろう。
 やがてイグナッツには、一七七四年、つまり十七歳の時に、裕福で音楽好きのエルドエディ伯爵というパトロンがつき、大作曲のハイドンのもとで五ヵ年、年間謝礼五百ポンドという高額な謝礼で学んだ。ハイドンはイグナッツの実力を認め、彼が二十歳の時に自分の持っていた合奏団の指揮者に指定している。しかし、彼はその境遇にあき足らず、パトロンに背いてイタリアに行き、オペラの研究に没頭した。その時、ナポリの宮廷でオペラ一曲と交響曲を数曲作曲している。
 一七八〇年に彼はストラスブルグの大寺院のオルガン奏者として六年間勤めたあと、チャペルマスターの地位を獲得している。さらに一七九一年にロンドンに渡り、旧師であるハイドンの競争者として、金銭的目的を第一主義的に考えてコンサートマスターとなった。彼は作曲者として作品が極めて多く、その一部のカルテットなどは、モーツァルトによってハイドンのものより優れていると賞讃されたが、多作の傾向は年と共にますますひどくなり、ずさんな、他の作品をまねたものが多くなって、遂には音楽家として生きることが難しくなってしまったという。いずれにしても彼は並外れた人物であったらしい。
 彼はフランス革命の間、宮廷側の人物として、しばしばギロチンの危機にさらされていたが、表面的にはあくまでも民衆の味方であるとの主張を通し、それを証明するために革命のための音楽を書いている。彼はこの革命賞讃のカンタータを、二人の憲兵に監視されながら七日間で完成しているが、幸いに出来上がりが良かったために命だけは助けられた。しかし、余程こたえたのか、数年間はパリを離れて行方不明となっている。
 プレイエルは一八〇五年に楽譜の出版の仕事を始めているが、ピアノの製造を開始したのは二年後の一八〇七年である。
 彼はその名をフランス流にイグナースと改名した。その音楽家としての経験は豊富であったが、エラールのようなキャビネットメーカーの腕を持っているわけではなく、さらにメカニックに関してはズブのしろうとであった。しかし、当時のパリの有名なピアノメーカーであったヘンリー・パペの弟子を一人引き抜き、ピアノを作り出したが、どうにもこの仕事には打ち込めなかったらしく、一八二四年に長年のカミユ・プレイエルに全権を譲り、パリの近くの田舎に引退して一八三一年十一月十四日に死んでいる。
 しかし、二代目のカミユ・プレイエルはピアノ製作者として優れた人物であった。彼は一九七二年にストラスブルグで生まれているが、父に音楽を学び、のちにピアノをデュセックに教わっている。なお作曲家としての才能も極めて優れていた。
 カミユは、当時の有名なピアノの大家であったカルクブレンナーとパートナーを組み、プレイエルの工場を盛り立てた。この二人は数年の間をロンドンで過ごし、イギリスのメーカーであるブロードウッド、コラードおよびクレメンティその他とともにピアノの製造技術を研究して、それらの優れた点をフランスの楽器に導入している。まず、ウォーナムのアクションをアップライトへ、ブロードウッドのアクションをグランドピアノにつけ、工場生産の方法を近代的に切り替えた。これがプレイエルのピアノの成功の鍵となったのである。
 カミユもカルクブレンナーも共にピアノの優れた奏者だったために、当時のピアニストの多くがプレイエルの工場の演奏ホールに集まった。その中で、プレイエルのピアノの名声を一挙に高めたのがショパンであった。ショパンは、創始者のイグナース・プレイエルが死亡した年の秋にパリにやって来て、プレイエル・コンサートルームでデビューしている。デリケート音色を好んだショパンにはこのプレイエルのピアノが最適で、このピアノの詩人は生涯この楽器を使い続けた。
 ショパンがプレイエルの名器を弾いて、どのようなすばらしい音楽を生み出したかは、今となっては探りようもないが、少なくともこの楽器はフランス特有の繊細でロマンティックなシンギングトーンを持っていたのであろう。
 ショパンがデビューしたプレイエルのコンサートホールは一八二九年に作られているが、このホールではカルクブレンナー、フンメル、ヒーラー、モシェレスおよびマダム・プレイエルなど、当時の名ピアニストたちが演奏会を開いており、一八四一年にはルビンシュタインが十歳で最初の公開演奏を行い、一八四六年にはサン・サーンスが同じく十歳でデビューしている。
 プレイエルは珍しい二段鍵盤のピアノやデュエット用の楽器などを作り出しているが、前者は奏法が特殊で、後者は使い途があまりなかったので現在はほとんど忘れられている。
 カミユ・プレイエルは一八五五年五月四日にパリで死んでいるが、この会社は彼のパートナーのコンセルバトワールの教授であったオーガスト・ウルフが受け継ぎ、社名は“プレイエル・ウルフ・アンド・カンパニー”となっている。ウルフの賢明な経営によって会社は発展の一途をたどり、彼の死後はガスタフ・リオンが加わったので“プレイエル・リオン・アンド・カンパニー”と社名を変更した。

改訂 楽器の事典ピアノ 平成2年1月30日発行 無断転載禁止


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