楽器の事典ピアノ 第4章 日本の代表的な2大ブランド  経営の近代化を推進した川上嘉市氏

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世界のトップの座に輝く《ヤマハ》のピアノ

 経営の近代化を推進した川上嘉市氏

 寅楠氏の死後、日本楽器の社長には内務官僚出身の天野千代丸氏が就任した。積極経営を行ったが、経営は放漫であった。工場火災、関東大震災による東京支店、横浜工場の喪失、慢性的な不況などが重なって経営は悪化した。
 こうしたなかで、大正十五年(一九二六)四月、日本労働組合が指導する大争議が始まった。参加従業員は約千名。争議は百五日間続いた。争議は終ったがヤマハの経営は悪化する一方であった。内部から上った改革の声におされて、天野社長が退き、代って川上嘉市氏が社長に就任した。昭和二年春のことであった。川上氏は東大工学部を首席で卒業、四十二歳の若さで住友電線の取締役をつとめていた俊才で、地元出身ということで懇請され日本楽器社長を引き受けたのであった。川上氏の周囲のものは「火の中へ薪を背負っていくに等しい」と反対したが、彼の意思はゆらがなかった。川上氏は社長就任の挨拶で次のように述べている。
 「日本楽器の事業は、日本としても潰すことのできない仕事である。ことに私は前から小さいながらも株主でもあり、また、この地方の出身者でもあるので、整理を引き受けることに決心した。自分の一身はある程度まで犠牲にしようとまで考えたからである……。ゆえに私は献身的に働く。諸君もそのっもりで努力されたい」
 川上氏は当時としては珍しいエンジュア出身の社長となった。彼は新しい時代の合理主義者であり、新しい製品の開発、生産工程の近代化をすすめ、営業面でも改革をはかる。崩壊に瀕していたヤマハは、川上氏のすぐれた手腕によって二年ほどで立直り、優良会社への道を歩むことになる。
 この変動によって山葉直吉氏はしばらくの間ヤマハを去り、河合小市氏は独立する。
 しかしピアノの品質を向上させるための努力は、直吉氏の弟子たちによって続けられていく。そしてこの時期、ヤマハピアノを大きく飛躍させる一つの事件とも呼べるような事が起こる。
 ピアノの品質と製造技術を向上させるために、ヤマハは大正の末に、当時人気絶頂だったドイツのペヒシュタイン社から、エール・シュレーゲルという技術者を招いていた。年俸は当時としては破格の一万円であった。しかし 彼はどちらかといえば飾りもの的存在で、せっかくの技術も活用されていなかったのである。直吉氏も河合氏も、自分の技術に自信かおり、シュレトゲルを受け容れなかったといわれている。
 だが先入観をもたなかった川上氏は、このシュレーゲルに日本人技師、工員を指揮する権限を与えた。そしてシュレーゲルも自分の持てる技術を惜しみなく与えることになる。
 山葉直吉氏の弟子で、シュレーゲルから直接手ほどきを受け、後に日本楽器取締役になる松山乾次氏はこう語っている。
 「たとえば当時、アクションの調整なんかにしても部分部分やっていたんですが、シュレーゲルさんは鍵盤をたたいて調整することを教えてくれたんです。今でこそ当り前のことですが、彼は、いっも音楽を表現するにはどうすればいいか、ということからピアノ作りを教えてくれました。とにかく驚天動地のことだったですね」
 川上氏はさらにピアノ製作の改良を試みる。昭和五年(一九三〇)、彼は世界のピアノメーカーとしては初めて、社内に音響実験室を設けているいろいろな実験装置が備えつけられたが。なかでもおもしろいのはオシログラフを使った音響実験室であった。外国製ピアノならどんなものでも良いとする世間の風潮に対して、川上氏はヤマハピアノの優秀性を科学的に立証しようとしたものであった。
 また川上氏は自ら、自動打弦試験機を考案している。これは、機械が連続的に激しくピアノを打弦する装置で、ピアノ保持に対する安全率と耐久性を測定するためのものであった。この試験機は改良され、現在も工場で盛んに使用されている。
 ヤマハピアノの品質はこうして徐々に向上し、昭和十二年(一九三七)頃には戦前のピークに達した。昭和十四年に行された「山葉ピアノ」のカタログには、アップライトピアノ十九、グランドピアノ十のモデルが掲載されている。この中にはルイ十六世型と称するアンチックなピアノやフルコンサートグランドピアノも含まれている。
 技術的にはペヒシュタインの影響を強く受けており、まだヤマハ独自のものにはなっていなかった。
 性能としては、外国の二流以下のピアノには十分太刀打ちできたが、べヒシュタインやスタインウェイなどにはまだても及ばなかった。しかし研究は盛んに行われており、製作技術も進歩をとげていた。このままいけば、近い将来、西ヨーロッパの一流のピアノとも肩を並べられる筈であった。しかし、日本は日中戦争に突入していた。やがてそれは太平洋戦争へと拡大した。川上氏は、工場がプロペラや落下タンクをつくる軍需工場となったときに、ピアノ製作の部門をあくまでも守ろうとした。彼は、周囲が軍国色一色に塗られていくなかで、いつの日か、ピアノ製作の技術が必要になる日がくることと信じていたのである。川上氏は文部省にかけあい洋楽器製造技術保存という名目をとりつけ、工場の片隅でピアノをつくり続けた。それはB29による本格的空襲が始まる寸前、昭和十九年十一月まで続いた。
 昭和二十年(一九四五)の五月から六月にかけて浜松はB29の攻撃を受け、ヤマハの工場は焼失する。


 
改訂 楽器の事典ピアノ 平成2年1月30日発行 無断転載禁止


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