オーフロイデ! ベートーヴェン交響曲第九番〜歓喜の歌の発音とうたいかた〜 第九の精神 横溝亮一

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《第九》の精神    音楽評論家 横溝亮一 

 

 ベートーヴェンが第九交響曲を作曲したのは、1822年から24年にかけてのことであった。あれだけの大曲のことだから、これくらいの期間をかけるのは当然だろう。ところが、《第九》の中心的主題となっているシラーの詩『歓喜に寄す』をベートーヴェンが初めて読んだのは、1792年のことだから、その時点から《第九》の完成までを計算すると、実に30年余を費やしたことになる。

 もちろん、この間、ベートーヴェンは多くの他の作品の創作にいそしんでいたわけだが、ベートーヴェンの心のどこかには、常に『歓喜に寄す』を音楽にしたい願いがあったと想像される。そうでなくしては、あの《第九》のような荘厳な曲が生まれるはずもない。

 ベートーヴェンがなぜそれほどにまで、この詩に執着したかを考えてみることは、そのまま《第九》という音楽の本質、精神を理解することにもつながるだろう。第一に、何よりもこの詩に盛り込まれているロマンティックな人間愛の精神が若いベートーヴェンの心をとらえたに違いない。そのエッセンスをこの詩から拾い出してみれば、“Alle Menschen werden Brüder”という一行につきてしまうだろう。「すべての人々は、みな兄弟となる」という、一見、それほどのこととも思えぬ一行が、ベートーヴェンにはこのうえなく新鮮で、すばらしい呼びかけと受け取れたのである。おりしも、ヨーロッパはフランス革命の時代で、絶対君主制が崩壊し、新しい市民社会の到来を予告する動きがあちこちで胎動していた。宮廷の権力に抑えこまれ、その桎梏のもとで呻吟していた庶民たちが、次第に手をつないで立ち上がっていく。『歓喜に寄す』は、そうした新しい時代の黎明を告げる鐘の音と考えてよい。

 ベートーヴェンはこの詩だけでなく、シラーという人のたくましい文学活動に驚異の目を向けていたと思われる。シラーについて、ベートーヴェンに多くの知識をもたらしたのは、ボン大学の若い教師フィッシェルニッヒだったが、実は『歓喜に寄す』を知る数年前に、ベートーヴェンはボンでシラーの演劇「群盗」の上演に接している。貴族社会から離脱して盗賊となり、徹底した反権力の行動をとる主人公の姿は、多感なベートーヴェン少年の心に何をもたらしただろうか。

 「群盗」から『歓喜に寄す』をつなげてみると、シラーがその激しい文学活動を通じて何をアピールしようと試みたかは明瞭に浮かび上がってくる。新しい時代の雄叫びにベートーヴェンが共鳴しないはずもない。

 後年、ベートーヴェンはウィーンで、人からサインなどを求められたとき、しばしば“Das Schöne zum Guten”という言葉を記している。散文的にいえば「良きことに向かう美しさ」ということになろうか。もっと簡略化すれば「善に至る美」とも訳せよう。ベートーヴェンという人は、生涯を通してきわめて倫理的に厳しい姿勢を貫き、人間の生きざまをより高い次元に高めていくことを望み、考えていた。そして、音楽においても常に人間の精神を照らし、その浄化に資し得ることを目標としていたと考えられる。「善に至る美」という彼のモットーは、ベートーヴェンの人生観と音楽に対する姿勢を端的に示すものである。《第九》に含まれる精神も、当然、この “Das Shöne zum Guten”と重ねあわせて理解することができよう。

 《第九》は初演当時の “時代の歌”であった。人類の連帯を呼びかけ、民主的な社会の建設を希求する時代の精神がここに集約されている。そして、初演後、今日まで150年を越えてなお《第九》が生命を失わないのは、《第九》の精神が現代にも通じるからにほかなるまい。時代は明らかに変ったように見えていて、実は権力の闇の手が多くの人びとの生活と精神的自由をおびやかしているのは変わりないのではないか。

 我々が《第九》を歌い、また聴くのは、ひとつの決意の表明としてではなければならないだろう。欧米諸国で《第九》がめったに演奏されないのは、それが音楽的に非常に困難であると同時に、その決意の深刻さにもよるのであろう。

 初演地であるウィーンですら、《第九》が演奏されるのは、年に一度あるかないか程度である。これに反して、幸か不幸か、我が国では年末になれば一挙に数十回も演奏され、《第九》を歌ったり聴いたりすることは少しも珍しいことではなくなっている。

 より多くの人びとが《第九》を“体験”することは好ましい。その意味で我が国にそのチャンスが多いのは歓迎すべきことといえる。しかしながら、《第九》の広がりは、反面この音楽の示す精神を深く考える心を失わせ、単なる流行現象のような形となっている傾向もある。この音楽はシラーの詩も含めて、人類の未来に捧げる祈りである。そのことを敬虔な心で理解するとき、《第九》はより深く強い感動を我々にもたらしてくれるのだと思う。
横溝亮一

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