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【訃報】
 かねてより入院療養中だった月刊ショパン・ハンナ総編集長内藤克洋が2018年12月14日未明死去いたしました。
享年91歳。12月18日通夜、19日告別式が営まれ、大勢の参列者に見送られて旅立つことができました。生前のご厚誼に心より感謝します。月刊ショパン創刊時の編集部に在籍し、現在有限会社あおぞら音楽社代表取締役北島京子氏の12月18日通夜式における弔辞(原文)を謹んで掲載いたします。




内藤克洋社長へ
 

 昭和の最初の年、昭和2年にお生まれになって平成の終わりまで、昭和・平成と2つの時代を生き抜かれた内藤克洋社長91歳のご生涯のうち、私がかかわらせていただいたのはほんの6年間です。1979年から85年にかけて、私は内藤社長の東京音楽社で書籍と雑誌の編集を担当させていただきました。今から40年近い昔のことですが、私が知る範囲で内藤社長が、誰よりも先駆けて初めて音楽界や音楽出版界で打ち出したことは、少なくとも4つあります。

 

  • その1-は、第九「歓喜の歌」のドイツ語のカタカナふりがな付き楽譜を出版したことです。

 内藤社長の発案によるこの出版は、今から50年以上も前です。今でこそドイツ語のふりがな付きは珍しくありませんが、半世紀前に「ふりがな付き」は画期的なものでした。これによって日本中にどれほど広く「第九を歌おう」のブームが起こったことでしょう、そしてどれほど多くの人がドイツ語で歓喜を味わえたことでしょう。
 ベートーヴェンには、今とは違って50年前はまだ教養主義の匂いが残っていました。ドイツ語は一部の人にしか読めませんでした。内藤社長はふりがな付き楽譜によってアカデミズムを打ち砕き、オー・フロイデを多くの人に開放したのです。平成30年現在の累計売上部数は、優に60万部を超えているとうかがいました。クラシック界における大ロングセラーと言えます。

 

  • 内藤社長が音楽出版界で大胆に初めて打ち出したこと。その2-は、

 『楽器の事典ピアノ』というピアノ百科事典を作ったことです。そのどこが初めてかと言いますと、国内外の多くの優良なピアノブランドを一挙に紹介しました。そしてピアノ調律師に焦点を当て全国の調律師名簿を掲載したことが、本邦初出版でした。しかも400ページにもわたる堅牢な造本の事典に、広告を入れたのです。ピアノメーカーの広告がずらり。1981年当時、事典に広告などありえないことでした。これも内藤社長が初めて行ったことでした。この伝説的な『楽器の事典ピアノ』が37年の時を経て、このたび電子版として復刊される運びとなったそうです。つい先頃、井澤彩野社長からうかがいました。内藤社長の思いが電子事典となって今後も受け継がれていく。とても喜ばしいことです。

 

  • 次に、内藤社長が音楽出版界で大胆に初めて打ち出したこと。その3-は 

 ピアノの月刊誌『ショパン』の創刊です。1983年。「誌面の見開きページを、テレビ画面と考えて編集せよ」と内藤社長からたたき込まれ、創刊号の立ち上げに私も携わりました。今では当たり前のことですが、35年前の当時、ビジュアルを大きく打ち出したピアノ雑誌、しかもピアニストという、人物に焦点を当て、しゃべりを生かした音楽雑誌はありませんでした。講談社の写真週刊誌『フライデー』がまだ創刊準備をしていた頃、いち早く世に出た『ショパン』に目をつけ、「クラシックでの面白ネタはフライデーに教えてください」と頼んできたほどです。

 『ショパン』創刊号を、東横線の乗客の女子高校生たちが食い入るように読んでいた姿に出会い、ヤッター!と快哉を叫びあったものでした。

 一方、日頃から友好関係にあった「日本ショパン協会」様が、その時ばかりは「芸術家のショパンを商業雑誌の名前にするとは、いかがなものか」と眉間にシワを寄せられました。すると、内藤社長は毅然とこう釈明しました。「ショパンの名前に著作権はありません。名称独占権もありません。みんなのものです」と。
 以来きょうまで一号も休まず、このほど420号を迎えた長寿雑誌になりました。
 月刊『ショパン』を内藤社長が世に送り出した根っこには、ご自身の青春が息づいていると思われます。内藤社長には若くして20代で亡くなった妹さんがいました。その妹さんは毎日コンクールのピアノ部門で入賞したほどの腕前を持つピアノ弾きでした。月刊『ショパン』でとりわけ若いピアニストやコンクールを大切に取り上げてきた根底には、亡き妹さんへの思いがあっただろうことを感じます。
 若き内藤社長には、ピアノと同じくらい歌と合唱への格別の思いもありました。内藤社長が初めて就職した全音楽譜出版社で、『合唱界』という合唱雑誌の編集を任されたこともひとつの要因です。やがてその『合唱界』を背負って独立することになり、ご自身で東京音楽社を創業するに至ったとうかがっております。『合唱界』という雑誌で出会った、世界の合唱団と人脈は、内藤社長のかけがえのない財産でした。それが後に身を結ぶことになります。

 

  • 内藤社長が音楽界で大胆に初めて打ち出したこと。その4-は、

 ウィーン少年合唱団とヤマハJOCの子どもたちとの、ウィーンでの共演を企画し実現したことでした。JOCとはご存じ、ヤマハ音楽教室で育った子どもたちの自作自演によるジュニアオリジナルコンサートです。当時、東京音楽社は、財団ヤマハ音楽振興会から委託を請け、『ヤマハ音楽通信』というこれは発行部数20万部の月刊新聞ですが、この制作を請け負っていました。私もその編集に携わりました。その取材でウィーンに飛んだのです。
 ウィーンのムジークフェラインザール・黄金の殿堂で、ウィーン交響楽団をバックに、ウィーン少年合唱団が、ヤマハのピアノを学ぶ子どもたちと対面しました。少年合唱団は、シューベルトも歌ったという、神聖ローマ帝国の時代から500年以上も続く聖なる天使のハーモニーの合唱団ですから、その古き伝統の都で、20世紀の新しい日本の音楽教育を受けた子どもたちが創ったピアノ音楽が果たして受け入れられるものだろうか、私もとてもドキドキした瞬間でした。が、ヤマハの子どもたちは、ウィーン少年合唱団と即興で見事に融合し、温かいハーモニーを奏でました。この世界初のサプライズを、企画し実現させたのが、内藤社長でした。
 ちなみにその時演奏したヤマハの子どもたちの一人に、後のワルシャワ・ショパンコンクールで第3位となり大ピアニストとなった横山幸雄さんがいました。当時小学校5年11歳でした。その横山君に付き添っていたのが、現在昭和音楽大学の名教授、江口文子先生でした。チャイコフスキーコンクールで優勝した上原彩子さんの先生でもあります。またそのヤマハのウィーン遠征中、付き切りで指導してらしたのが、大阪の坂弘子先生。ちなみに坂先生の多くのお弟子さんの中にはテレビでも知られるピアニストの西村由紀江さんや女優の松下奈緒さんがいます。その江口文子先生・坂弘子先生の大先生とヤマハの要人の方々から「内藤さん、良かったよ。ヤマハの子どもと少年合唱団との共演をありがとう」と頭を下げられました。嬉しそうに微笑む内藤社長の傍らで私は、これは内藤社長をおいてほかの誰にもできない大胆な企画だったと誇らしく思ったものでした。これが、内藤社長がヤマハをはじめ楽器業界・音楽業界から一目置かれることになるひとつのきっかけとなった出来事でした。

 

 以上4つは、ほんの6年の間に見聞きしたことですが、今思えばこのどれもが、内藤社長が後の音楽界と音楽出版界に残した功績の一部です。
 内藤社長からは、転んでもただでは起きない不撓不屈の粘り強さを学ばせていただきました。
 最後まで編集者として出版人として、生涯現役を貫いた91歳の内藤克洋社長。刺激に満ちた誰にもできない見事な人生であったと、頭を垂れるばかりです。

 きょうまでありがとうございました。どうかゆっくりとお休みください。 

              北島京子(有限会社あおぞら音楽社 代表取締役 月刊『ショパン』創刊担当編集者)

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