オーフロイデ! ベートーヴェン交響曲第九番〜歓喜の歌の発音とうたいかた〜 案内編 半生の闘いを経て「百万の人びと」の音楽を創る 小松雄一郎

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半生の闘いを経て「百万の人びと」の音楽を創る   

ベートーヴェン研究家 小松雄一郎

 

第九は演奏者と聴衆がひとつになる音楽である



 ヴァルター・リーツラーは、いわゆる音楽家達が、音楽は選ばれた人たちだけが享受することができる芸術であって、それは一つの聖域だ、と垣をめぐらしているのに対し、《第九》はその垣をこわしてしまう音楽だ、と言っている。そのことを深い含蓄のある表現で書いているが、できるだけ平易に書きなおすと、
「第4楽章の器楽だけの部分が終わり、プレストの表示のもとに、この楽章の始まりのファンファーレが最初のとき以上に激しい不協和音で奏され、バリトン独唱者がすっくと立ち上がって、一歩前に踏み出すかのように、


 “おお友よ、この調べではない!
  もっと快い、歓びにみちた調べを
  歌いはじめよう。
  歓喜”


 と歌い出し、バス合唱が“歓喜”とこれに応じたとき、その瞬間にひとつの垣が倒される。それは「絶対音楽」というものが、言葉とはちがってだれにでもすぐ伝達できるような明瞭な概念とはちがうのだ、と思いこまれ聖域化されていた垣が倒される。それまで聴衆は、音楽は自分たちの理解の及ばぬものとして、自らひかえめに、畏敬の念をこめて、いわば垣の外で立ち聴きしていたのに、この歌声が入ってきた瞬間に「絶対音楽」は変態脱皮する。手のとどかぬ神秘の世界のものと思われていた音楽が、自分たちの見ている前でさなぎから美しいちょうに変態脱皮するその現場に聴衆は立ち合うことになる。
 そして、次々と進行し、高揚していくその不思議な現場に立ち合って、それまではその進行の外側で感動し、心を奪われながらも、それが目の前を通り過ぎていくのを見守っていた聴衆が、この場面にぶつかって自分みずからもその行進に参加し、その一員となるのである」
 こうした意味のことを書いている。(Walter Riezler "Beethoven" 1936 Berlin und Zürich s.227)
 《第九》以前の交響曲にも、またそれ以後の歌声を組み込んだ交響曲にも、このように聴衆が自分から進んで音楽のなかにとびこみ、いっしょになって音楽をする、といった曲はない。
 《第九》だけがどうしてそうした音楽なのか。音楽という特別の、だれにでもわかるとは限らないと考えられていたものが、その音楽自身が垣を倒して、皆のものになる、万人のものになる、そうした変容をするのは《第九》だけだということはどういうことか。
 それは何よりも《第九》自身が、後に述べるように、「百万の人びとよ、わが抱擁を受けよ」と歌っているように、音楽的にも詩的思想においても、そのような素材のうえに構成されているからである。
 たとえ、作曲家が聴衆が自分も肉声として持っている歌声をとり入れたとしても、それだけでは「絶対音楽」の垣がたおされ、音楽自身も変容することは不可能であることは言うまでもない。音楽が百万の人びととなるような素材と形式が備わっていなければ、それは不可能であった。
 《第九》はそれをもっていた。素材としてはシラーの詩『歓喜に寄す』と、フランス大革命のなかから誕生した「歓喜のメロディー」の源泉となる音楽。この二つを基礎にして合唱を伴う交響曲という形式をとったからである。後で述べる通り、この二つの要素は《第九》になるまで7回も歌曲その他にメロディーとして、または詩句と結びついて生かされてきたが、それだけではこの要素がもっている内実を全面的に発揮させることができなかった。
 一方ベートーヴェン自身も《第九》を作曲して、百万の人びとと結びついて自分を生き返らせなければ生き返らせなければならぬはめになっていた。彼が生活していたオーストリア社会はナポレオンの敗北後、1814年を期として復古をめざして逆行し、反動に転じていた。しかし、ベートーヴェンはそれに追従しなかった。そして彼は社会からのけ者にされた。ベートーヴェンは自分が歩みつづけてきた道を曲げまいとするには、百万の人びとが共にする音楽を創る以外になかった。それは困難な道だったが、成し遂げる不屈の意思と努力と天分を彼は青年時代から蓄積してきていた。
 《第九》には、ベートーヴェンのそれまでの生活と音楽が集約されている。それは彼の半生に等しいと言える。作曲技法、音楽法則の駆使にととまらず、ここではさらに新しい技法を発見し、音楽法則を創造している。それでいて、合唱の部分は専門家でなければ歌いこなせないほどの技巧的なところはないようにしている。アマチュアでも練習さえすれば歌えるように作っている。ベートーヴェンの作品でこのような作品はこれ以外にない。そして、オーケストラや独唱者には、最高の技術を要求して、彼の表現したいもの、彼の求める思想を音楽としている。《第九》はこの二つを巧みに結合している。


「百万の人びと」を動かしたメロディーと詩


 ベートーヴェンは百万人の音楽を書いて自らも孤独と孤立から脱却し、音楽というものを「絶対音楽」と称された、選ばれた少数の人たちだけのものから、だれでも積極的に求めれば自分のものとすることができるように《第九》を創っている、というがそれは具体的にはどういうことか。
 それは音楽的にも、思想的にも《第九》の中心となっている『歓喜』が百万の人びとが実際に立ち上がったフランス大革命の原動力となった理念であったからであり、それは音楽と言葉とによって《第九》のなかにつらぬかれているからである。そしてそれはまた、ベートーヴェン自身が青年時代から一貫して歩んできた道であったからである。


「歓喜のメロディー」の源泉


 《第九》の合唱の「歓喜のメロディー」は、ベートーヴェンがボン時代に親しんだフランスのオペラッタによく出てきた大衆の親しんだメロディーに由来している。ボンはドイツ語圏のなかでも最も西側、フランス、オランダ、ベルギーに近い位置にあった。そしてボンの支配者(ケルン大僧正であり、かつドイツの皇帝を選ぶ権限をもつケルン選帝候)は歴代フランス文化を受け入れ、政治的にはさきの3国に対し敵意を持たぬ態度をとってきた。ボンの国民劇場のレパートリーを見ても上演されているのは、ドイツ音楽よりもフランスのオペレッタとイタリアのオペラ・ブッファであった。ベートーヴェンはボンの選定候の楽団の一員であると同時に、国民劇場のオーケストラの一奏者であった。
 フランスの歌劇作曲者ルイジ・ケルビーニ(1760〜1842)の歌劇『ロドイスカ』の一節に次のものがある。

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 さらに、同じくフランスのオペレッタ作曲家であるニコラス・メユール(1763〜1817)の『進軍歌』にも次のものがある。

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 この二つの音型は、後のベートーヴェンの『歓喜の歌』のメロディーと実によく似ている。それだけではない。同じくこれもフランスの歌劇作曲家エルネスト・モデスト・グレートリ(1742〜1813)の1778年作『嫉妬深い恋人』の一節にも同じような音型が見られる。こうした音型が見られるのは、大革命期の作品であり、メユールの『進軍歌』は革命の民衆の行進そのものを歌っており、ケルビーニの作品は革命期のものが基礎になっている。つまり、この三者に共通して現れるメロディーは、フランス革命から生まれたメロディーだと言ってよい。
 しかも、当時ボンではケルビーニ、特にグレートリの作品は他を圧して演奏されていた。従って先の作品のメロディーはだれでもすぐに覚えてしまうような親しみやすいものであったので、流行歌のメロディーのように歌われていたと言ってもまちがいない。


1795年 歌曲《相愛》


 ベートーヴェンの心にも、このメロディーが忘れられないボンの思い出のひとつであったと推定される根拠は、1794〜95年の作品とみられる、G・A・ビルガーの詩に作曲した《“愛されぬ者の溜息”と“相愛”の二つの詩による歌曲》WoO.108の「相愛」のメロディーに先にあげたメロディーが現れていることである。この作曲によってはじめて、このメロディーがベートーヴェンの意識の中にひとつの位置を占めることになり、それが《第九》にまでつづくのであるから、それを《第九》第九の一つの源泉と名付けてよいとわたしは考える。
 ベートーヴェンに1792年ボンをはなれてウィーンに来た。そして1795年になぜボン時代に親しんだメロディーを歌曲に生かしたのであろうか。この作曲の動機については具体的には何ひとつ伝わっていない。推測の他はないが、1795年ベートーヴェンが仕えていたボンのケルン選帝候マキシミリアン・フランツがナポレオンに追われてボンを離れ、ボンの選帝候支配にピリオドが打たれた年であり、従ってまたベートーヴェンに送られていた選帝候からの「留学費」とでもいう送金も打ち切られた年である。
 普通の作曲家なら、ボンと選帝候をなつかしみ、挽歌とでもいった趣きの作曲をするところだが、ベートーヴェンは自分に活気を与えてくれた当時ボンで流行していたメロディーを自分の作品にはめこむことによって、懐かしいだけでなく、自分に活力を与えてくれた根源を確認する行為をこの作曲で行なったのだと見ることができる。詩詞そのものは、このメロディーに必ずしもしっくりしているとは言えないのに、このメロディーを忘れまいとして、刻印でも押すかのように詩詞につけたと言ってよい作品である。しかも、生涯に幾度も点々として住居を変え、すぐには何回と数えられないほど転居しているベートーヴェンが1822年《第九》が浮かび上がってきたときになって出版者アルタリアに、自分にはこうした作品がまだあるが出版しないか、と言っているように、未刊のままになっていたこの作品を大切に保存していたのであった。


1803年《友情の喜び》


 《相愛》でベートーヴェンの心の中ではひとつの位置を占めるに至ったこの楽想は、《第九》になるまで、7回彼の作品に登場することになる。登場のひとつひとつの場合を見ていくと、一つの楽想でもベートーヴェンの音楽思想の発展につれて、どのように変化していくかがわかる。それを一つの主題と見るなら、主題は変奏によって、本来主題に潜んでいた可能性を、音楽法則を駆使して展開されるのであるが、この場合《第九》まで30年の月日のなかでの変化であり、ベートーヴェンの心も変化していくので、それをこの楽想の取扱いの変化に見ることができる。ベートーヴェンの音楽では楽想のこうした出現のしかたは、《第九》に限ったことではない。
   ベートーヴェンの場合、ひとつの楽想、さらにそれがメロディーにまでなったものは、当然彼の音楽的なひとつの想念、基本的な考え方、もののとらえかたを表している。《第九》の各楽章は深い内的関連をもっているが、「歓喜のメロディー」となったときは、それはニ長調の音階のなかのニ〜イの5音から成り立ち、すぐ隣の音に一歩一歩と上行し、下行するメロディーとなっている。そこではロと嬰ハの音を避けている。それによってメロディーの安定度は増すことになる。
 《第九》になるまで7回登場するメロディーは、いずれもおのおのの調性のなかの5音から成り、すぐ隣の音へ上下するという基本的な特徴を共通としているが、出現する状況によって、その中心になる特性が同じでも、変化する。主題の内的関連と同じく、本質は変わらないが、現象的、感覚的には変化する。主題の内的関連と同じく、本質は変わらないが、現象的、感覚的には変化する。それは、そのときどきベートーヴェンが何を求め、何を表そうとしていたかを物語ることになり、またそれは彼の魂の動き、感情の温暖前線であり、また不連続線でもある。ここでは、順を追ってこのメロディーが出現していくありさまを見ていくことにする。
 1803年、《相愛》から約8年後、歌曲《友情の喜び》作品88(作詩者不明)にこのメロディーが見られる。この年のスケッチ帳で見られるのだが、これはそれ以前の着想をこのスケッチで定着させたもののようである。
 イ長調で ファーミーレードーシ の音階型であるから、《相愛》と同じ型であり、第1期に属するものである。


1804年《レオノーレ》 



 1804年、歌劇《フィデリオ》の第一作《レオノーレ》のスケッチで、後の「歓喜のメロディー」の類型が登場する。
 《相愛》、《友情の喜び》この二つの場合、メロディーと《第九》の合唱で歌われるシラーの詩とは何の関係もなかった。
 それが、1804年《レオノーレ》のスケッチではシラーの詩の一説とは明示していないが、
「ひとりの気高き女性をかち得た者は、和して歓呼の声をあげよ」
 とドイツ語では一語ちがう単語があるだけでシラーの詩とそっくりの詩句にこのメロディーがつけられている。これはベートーヴェンの要請で作詩者のゾンライトナーが採用したものであることは確実である。そして一語だけ違うのはおそらく記憶によってシラーの詩を使ったからであると見られる。
 歌劇《フィデリオ》は、フランスのニコラ・ブィイーの原作台本をベートーヴェンの依頼でヨーゼフ・ゾンライトナーがドイツ語の台本に作り変えたものである(訳というより作り変えである)。この「ひとりの気高き女性」うんぬんが歌われるのは次の場面である。
 夫を救い出すため男装した妻レオノーレが終幕の地下牢で、夫を謀殺しようとする刑務所長ドン・ピサロの前に立ちはだかり、夫フローレスタンを殺害するのなら、その前にわたしを刺せと言いながら、隠し持ったピストルをドン・ピサロにつきつける。ちょうどそのときフローレスタンの友人でもある大臣ドン・フェルナンドの到着をつげるラッパが遠くから聴こえる。ドン・ピサロは、悪計が露見したかとその場にへなへなと崩れ落ちる。そのとき夫フレーレスタンがレオノーレをたたえて歌うのがこの歌詞であり、このメロディーである。ブィイーの原作にはこの場面はあってもこの言葉はない。
 なぜベートーヴェンがこの詞句を要請したかということは、どうしてベートーヴェンがこの台本を選んだかと、それとからむ題名のいきさつから結論される。フィデリオというのは男装したレオノーレの仮の名前である。ベートーヴェンの原案では『レオノーレ、または夫婦の愛』とわざわざ副題をつけて、この台本を選んだ彼の心情を明らかにしている。そのころのベートーヴェンのメモから、彼は女性の愛を得て、それを夫婦の愛としてかためたいとの熱望を持っていた。周知の通り、それは一生涯をかけても実現されなかった。またそのことが《第九》の詞句の扱いと音楽に表れているのである。
 ベートーヴェンは女性の理想像をレオノーレに見、この詞句のために歌劇を書いたと言ってさえよいほど、これは作曲者の意図を集約している部分である。(劇場側はベートーヴェンの抗議を無視して題名を『フィデリオ』にしてしまう。)
 1805年のこの歌劇の第一作が完成したときも、このスケッチはフローレスタンの独唱と合唱にそのまま生かされた。合唱ではフローレスタンの激しい喜びの表出から一歩さがった音楽をつけている。1814年《フィデリオ》第三作でも、言葉もメロディーも生かされた結びとなっているが、第一作と少し変っている。
 表「"歓喜のメロディー"の発展」で見られる通り、《レオノーレ》でのメロディーの音型はケルビーニの《ロドイスカ》に近い。ニ長調で ミーレードーシーラ の音階型になっている。(なおベートーヴェンの《レオノーレ》作曲にはケルビーニとの密接な関係があることをつけ加えておく。


シラーの詩『歓喜に寄す』と「歓喜のメロディー」


 1804年《レオノーレ》のスケッチにシラーの詩『歓喜に寄す』の一節とそっくりの言葉と、「歓喜のメロディー」とが結びついたのはただ偶然にそうなったということではない。
 ベートーヴェンは1787年シラーの詩が、シラーの自費出版の雑誌『ラインニッシェ・ターリア』(ラインの美の女神の意)第2号に発表されたとき、またはそれ以前、作詩されて早々にこの詩を知っていたことはまず確かである。
 シラーのこの詩はドレスデンで作詞されるやいなや、写され全ドイツ圏にひろがり、当時の進歩的な合理主義と国際平和の団体であったフライマウレル(フリーメーソン)の集まりで歌われたいった。
 それまでもシラーの書いた劇作はボンでは発表されたその年か、おそくも翌年には必ずと言ってよいくらい上演されていた。ベートーヴェンはボンのフライマウレルのメンバーとも親しかったので、ほとんど確実に印刷になる前に読んでいたに違いない。それ以上確かなことは1792年ベートーヴェンはボンを離れる前に、「この詩の全編に音楽をつけたい」と言っていたことがシラーの友人でありボン大学の教授となって赴任してきていたフィシェーニッヒがシラー夫人シャルロッテにあてた手紙に書かれている。シラーの初出の詩をベートーヴェンがボン時代に読んでいたということは《第九》の作曲の精神がどこにあったかを考えるうえできわめて重要なことである。
 この詩に熱狂したのは、何もベートーヴェンだけではなかった。だがこの詩の真髄ともいうべき理念を、シラーがとらえていた以上に鮮明にし、それを今日に至るまで全世界にゆきわたるようにしたのは、ベートーヴェンだけであった、シラー自身はこの詩を書いた時点から後退し、変節したと言ってよいほど時勢に押し流されたにもかかわらず、ベートーヴェンは《第九》で「歓喜」をさらに大きく発展させた。
 全ドイツが熱狂し、ベートーヴェンも詩の全篇に音楽をつけようと言ったのは、シラーがフランス大革命に先立って、その革命の原動力とも言うべき「歓喜」を民衆のものとするべく歌ったからであり、「百万の人びとよ、わが抱擁をうけよ! この接吻を、全世界に——!」と歌い「暴君の鎖を解き放ち、………絞首台より生還!」といい、そして、乞食は王侯の兄弟となる」と革命を歌いあげたからであった。それはドイツ啓蒙思想が生んだ最も輝かしい所産であった。だがシラーはドイツ啓蒙思想がもった弱点をそのままもっていた。彼の思想にはフランス啓蒙思想がもっていた民衆みずからの力で自由を切り開いていこうという面と、専制啓蒙君主にたより、その枠内で不合理な面だけを教育的になしくずしにあらためていこうという面とが共存していた。シラーはドイツの後進性、狭苦しさ、みじめさを自覚し、それから逃れようとはするものの、革命によってではなく、観念的な理想国家に向かい、理想のなかに逃避する。1789年フランス大革命が始まると、軌を一にするかのようにドイツ啓蒙主義は指導者を失う。ドイツは民族的な狭さに逆戻りする。シラーの詩が高唱した「この接吻を全世界に」ではなくなる。シラーもこの逆流に歩調をあわせて変節する。シラーは、この詩を書いた1775年のときは落胆してドレスデンにたどりついたのだが、友人フィシェーニッヒに暖かく迎え入れられて元気をとりもどしたのであった。それが1800年にはフライマウレルの思想に触発されて作詩した『歓喜に寄す』は若気のいたりだったと、フィシェーニッヒに書くようになる。シラーは1803年に没するが、1805年に発表された全集ではシラーの遺志通り、『歓喜に寄す』は改変されたものになってしまう。(そして、その改変されたままのものが第二次世界大戦まで通用することになる)ベートーヴェンの心をとらえたのは、まだ汚れを知らぬ時代のもとのままのシラーの詩であった。《第九》で「歓喜のメロディー」とひとつになるのは、この初期の革命的なエネルギーにみちたシラーの詩であった。彼はそのことを1812年のスケッチ帳で明記している。


1808年《合唱幻想曲》

 
 この曲はオーケストラと歌声を一体としようという試みであり、《第九》へのひとつの基石ともなっている。この曲でもピアノの幻想曲と歌声で、後の「歓喜のメロディー」となる音型が使われている。
 ここではシラーの『歓喜に寄す』の詩句は使われていないが、合唱に使われている歌詞はベートーヴェンとクフナーの共作のもので、「平和と歓喜が寄せては返す波の如く」とか「音の魔力が支配するとき、……夜と嵐は光と変わる」、また「その美しき心を受けよ、……愛と力が結び合うとき、人間に神の恵みが報いられる」といったシラー的な表現をもつと共に、「夜と嵐」に対し「光」を配置し、詩の中心思想を「平和と歓喜」においているのはベートーヴェンの考え方だと言える。だから、この曲の試みはただ単にオーケストラの一声部に歌声を組み入れるという点だけでなく、曲全体で表わそうという思想の点でも《第九》の先駆となるものである。こうした点で、私はこの曲は《第九》のもうひとつの源泉であり、シラーの詩、「歓喜のメロディー」の原型に次ぐ第三の源泉と名付けてよいと考えている。


1812年「新しい交響曲」の発想


 1812年ベートーヴェンの中期の音楽の頂点となる《第七交響曲イ長調》と《第八交響曲へ長調》の2つの交響曲のスケッチ帳に “歓喜、美しき神々の花火、乙女、序曲をしあげる” “二番目の交響曲 ニ短調” と予言的な言葉を書いているが、それにとどまった。
 同じスケッチ帳のなかに、シラーの詩の第一節の詩句を書き、音楽の着想をスケッチしている。(しかしこの着想は《第九》には成長していかない)
 また同じく詩の第一節で、シラーが変節した後には「すべての人びとは兄弟となる」と変えた部分は、1787年の初出のときは「乞食は王侯の兄弟となる」であったが、その部分をベートーヴェンは、
“殿様は乞食となる”
と記憶していたようで、おそらくこのとき改変された1805年の版を見たのか、
“殿様は乞食となるうんぬんのごときは[新しい版では]ずたずたになっていて完全ではない”
と書き、そのあとひとつの楽想を書いているが、それは隣の音へ一音ずつ上行し、下行するという特徴では、《第九》の「歓喜のメロディー」と相似である。
 そしてさらに、
“シラーの歓喜のずたずたになった詩句から完全なものを創る”
と書いているが、これは改変された詩句が、ばらばらで当初の詩の思想から見れば悪くなっている。それを完全なもとのものにしようとの考えをベートーヴェンは書いたのであろう。
 しかし、このときはこれ以上に進まなかった。だが、1812年にシラーの『歓喜に寄す』がベートーヴェンの創造的な意欲をかき立てたことはこのメモとスケッチが明らかにしている。
 この新しい交響曲の発想に先立って1810年ゲーテの詩3篇に作曲した。そのひとつに歌曲《いろどられるリボンもて》がある。そのメロディーは明らかに《相愛》以来つづいてきたものが、後の「歓喜のメロディー」へさらに一段と近づくものとなっている。(表「“歓喜のメロディー”の発展」を見られたい)ニ長調にすればミ—ファ—ソ—ソ—ファ—ミ—レ—ドとリズムはちがうが「歓喜」に近づき、始めが上行音型となっている点でも近い。


1819年《婚礼の歌》


 1817年となると、《第九》への道という眼でみるとひとつの段階を上ることになる、第2楽章の主題となるフーガのスケッチが現れる。そして1818年になると、スケッチ帳に第1楽章のスケッチのきわめて初歩のものであるが、主要主題、主要モチーフがあちこちにばらばらに書かれ、また楽器編成についてもメモがいくつか書かれている。しかし第3、第4楽章については、何の音符も書かれていない。そのときは《ミサ・ソレムニス》がベートーヴェンの創造意欲の中心になったからである。
 この時期にシュタインの詩に《婚礼の歌》(WoO.105)を作曲している。テノール独唱と合唱、ピアノ伴奏の曲である。これはベートーヴェンのおいカルルが寄宿していたジャンナタージオ・デル・リオの娘アンナが結婚するにあたって作曲したものであり、それは《第九》の第一楽章のこの年のスケッチの間に見られる。表「“歓喜のメロディー”の発展」で見られる通り、これはむしろ第二期に近い形にもどっている。


1822年《盟約の歌》


 1822年6月28日 ライプツィヒから訪ねて来た、高名な音楽評論家フリートリッヒ・ロホリッツにベートーヴェンは交響曲の構想があることを語っており、7月6日付でロンドンにいる愛弟子フェルディナント・リースに、
「[ロンドン]フィルハーモニック協会は大交響曲にいくら出すと考えますか。健康さえ許せばロンドンに行こうという考えを……もっているのです」
と書いて、新しい交響曲をひっさげてロンドンに行く意欲を示している。11月10日にはフィルハーモニック協会は、ベートーヴェンに交響曲作曲を依頼するとこを決議し、草稿に50ポンド支払うことも決める。12月20日の手紙がこのことを伝えてきている。これはベートーヴェンがオーストリアで受けられる作曲報酬に比べればけたちがいの額であり、これが作曲の具体的な引き金になったことは否めない。
 この年のスケッチ帳は第3楽章を除いてさらに進んでいる。そして次の重要なスケッチ帳がある。

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 ここで初めて、後の「歓喜のメロディー」とシラーの詩が結合したものが示される。
 この年の暮れから翌年にかけ作品122となるゲーテの詩《盟約の歌》に作曲している。2声の独唱、3声の合唱で管楽器6本(クラリネット、ファゴット・ホルン各2本)の伴奏の曲である。表「“歓喜のメロディー”の発展」の通りの主題であり、後の「歓喜」のメロディーにきわめて近いものになっている。おもしろいことには、この曲の原案は1797年のスケッチにさかのぼってみられることである。しかし原案はこのようにすっきりと磨きあげられたものではないことだけここで述べておく。
 歌声の編成、管楽器の使い方では《第九》に接近していることは注目してよい。



歓喜のメロディーの原型と、その継承発展(「一覧表」)



 「歓喜のメロディー」の原型がケルビーニの『ロドイスカ』その他に見られることは先に書いた。
 他方不思議と言えば不思議であるが、一歩退いて考えれば当然ともいえる歴史的な事実を、シラーの『歓喜に寄す』の初版本(1786年『ラインニッシェ・ターリア』2号、以下『ターリア』と略す)の写しを入手したとき私は発見した。一方またこれまでこの事実にベートーヴェン研究家のだれひとりとして言及していないことにも驚いた。
 それは『ターリア』の『歓喜に寄す』の詩の見ひらきの左ページに楽譜がついているのであった。そのことはこの詩が印刷になるまでにすでに広く、多数の人びとによって歌われていたことの証明でもあった。しかし作曲者名は記載されていない。いろいろな節で歌われたなかのもっともよく歌われたものであると考えられる。そしてさらに興味深いことは第5、6、7小節を調べてみると、ベートーヴェンの1795年作WoO.118の各曲《相愛》と似ていることである(表の関連づけの点線参照)。
 『ターリア』の節の作曲者はベートーヴェンではない。しかし、ベートーヴェンは『ターリア』を読んでいることは確実である。《相愛》が《第九》の「歓喜のメロディー」の第一の源泉というなら、『ターリア』はその原型ではなかろうか。ではケルビーニの『ロドイスカ』やメユールの『進軍歌』との関係はどうなのか。『ターリア』のこの3小節が歌曲全体のなかにもつ役割と、『ロドイスカ』その他の抜き出したメロディーがその曲のなかに占める役割とをくらべれば、『ロドイスカ』その他の方が、はるかに中心的な役割をもっている。つまり、『ロドイスカ』その他ではこのメロディーが主題であり、『ターリア』の場合は副次的な一節の役割りしかもたない。だがこの3つの譜から結論できることは、シラーの詩のもつ基本的な特徴を音楽的に表現すれば『ロドイスカ』や『進軍歌』や『ターリア』の一節と同じ基調の上にあるということであった。これは大切な事であると私は考えている。
 ケルビーニの『ロドイスカ』、『ターリア』と、《相愛》、《レオノーレ》などこれまで述べてきた、「歓喜のメロディー」になるまでのベートーヴェンの歌曲のなかのこれに関連するメロディーを関連づけると別表の通りとなる。

歓喜のメロディーの発展.jpg
 

 一覧表に見るとおり、1795年歌曲《相愛》に後の「歓喜のメロディー」の最初のものが現われて以来、1822年まで7曲の歌曲または歌声を伴う楽曲にこのメロディーの形が登場していた。このことは明らかにこのメロディーがもつ想念がベートーヴェンの精神を形づくるうえでの一つの要素、役割をもっていたことを表わしている。彼の精神生活のなかで、彼が考え、彼が行動し、物事を判断するうえでこの期間断続しながらいつも存在したひとつの考え方、物のとらえ方であったことを示している。《第九》によってそれが交響曲という多面的で、複雑な表現力をもつ楽曲の形式によって、この想念がその全貌を現わし、展開したのであった。《第九》が「歓喜」によってつらぬかれているのは、こうした長年の歴史的なこの想念の消え去ることのない持続があったからである。
 ベートーヴェンの音楽にはそうした「想念」がいくつかある。
 《第五交響曲》のいわゆる運命のモチーフもそうであり、1807年の《第五》に至るまで7回も彼の重要な作品に現われている。また“エロイカ”のモチーフのように一時期の作品を傘がおおうように全体を包んでいるものもある。それは一般に認識されているよりはるかに広く深く、《ピアノ協奏曲第三番》にも、いわゆる《月光の曲》にもおよんでいる。
 ベートーヴェンの作品を一曲一曲ばらばらにしては、どのように堀りさげてみても彼の精神、彼の音楽には到達できない。ということは上記のように、彼の精神を成り立たせている要素、そのからみ合い、発展は、一曲一曲を孤立させては理解できないからである。ましてや演奏、表現となるとそれではただうわべだけの空虚なものとなってしまう。
 《第九》は、彼の音楽の頂点だ、と言われるのは、前述のような認識があって初めて言えるのである。
 以上、《相愛》を出発点とした「歓喜のメロディー」までの変化発展を述べてきたが、《第九》は言うまでもなく、「歓喜のメロディー」だけで成り立っているものではない。
 第1楽章の冒頭の16小節は、まさに宇宙の始まりをあらわしており、第1楽章第1主題はベートーヴェン自身が書いているように“我々の絶望だった状態”であり、第2楽章は中期の高揚を描いたものであり、第3楽章はベートーヴェンが最後まで自分の手に握りしめることができなかった愛情への憧れであるということができる。さらに各楽章の持っている意味も、一歩一歩楽曲にそって明らかにすることができるのである。
 
 《第九》はベートーヴェンがボンで生まれてからの54年の半生の闘いのあげく到達した音楽であり、「百万の人びと」と結び合う音楽であった。

*参考にしていただきたい私の著作
小松雄一郎編訳『ベートーヴェンの手紙』上・下(岩波文庫)
小松雄一郎編訳『ベートーヴェン音楽ノート』(岩波文庫)
小松雄一郎編訳『ベートーヴェン書簡選集』上巻・下巻(音楽之友社)
小松雄一郎著『ベートーヴェン第九 フランス大革命に生きる』(築地書館)
小松雄一郎著『ベートーヴェン ミサ・ソレムニス』(築地書館)




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